ごちゃごちゃ考える。

 と、いうわけで何事もなかったのように半年ぶりの日記をつけてみる。てか、ふと過去の日記読み返したりとか最近してたんだけど、めっちゃ面白かったりとかして。俺だけですかそういうの。てかうっかりこういうこと書くと、めっちゃ自分ラヴって感じで恥ずかしいですよねー(笑)。


 ・・・いやその、流石にCDのレビューだとかプロットの習作だとか、そういう所謂カタめの文章についてどうというつもりはないというか、それはまあ、「ああ、そういう考え方も出来るよね」って感じで、むしろ距離感を持って眺めてしまうので、面白いという感じよりも、「へーぇ」っていう。だから上で書いた「面白い」ってのは、「オイッスー!とか言いながらオイスターソースを買う。」とか「マニフェストマニフェストって、藻前らそんなにロキシー・ミュージックが好きだったのかよ!という感じ」とか、そういう・・・「えも言われぬくだらなさ」が、面白かったりするのね。自分バカ過ぎっていう。でもそんな芸人っぽい自分、嫌いじゃないぜ、みたいな。あれ、結局自己愛っぽく聴こえるな。えーっと、だからつまりそうじゃなくて、そりゃ勢いに任せて深夜に一人でウケながら書いた、モロに自分用の、オーダーメイドな文章なんだから、そりゃ自分が一番面白がれるだろっていう、まあそういうことなんですかね。考えてみれば至極当たり前。だからどうした!的な。まあ語尾に「!」付けられちゃっても困るんだけどさ(笑)。



というわけで、成長してない茶々某さんなのでした(上手くオチたふり)。

lost in translation

 (こういう言い方もまた「不謹慎」なのかもしれないが、)もう完全に時機を逸してしまってる気もするので特に触れずにおこうかと思っていたのだけれど、でもやっぱり触れようと思う、3・11の話。



 実は私自身、数少ない大学時代の知り合いの中に、福島生まれで、卒業後はあちらで仕事している人間がいる。しかし、心配は心配でも「大丈夫か!?」と騒ぐ程の関係ではないし、彼もきっと面食らうのではないか、とそんな気がしていたら、とりあえず無事で、しかも上京して花見をするという。しかし私は職業柄どうしてもこの時期の日曜は休めないので、欠席・・・まあ、そんなものだよな、と思った。まあこの先カラオケで一緒になることはあると思うので(今は何年かに一度そういうことがある、という程度の関係なのだ)、そんときに「相変わらず喉で歌ってんなこんにゃろ」とか言ってやれればいいかな、とかも思っている。


 あちらはあちらの現実がある、しかしこちらはこちらで現実がある。それはやっぱり事実なのだろう。


 とりあえず「日本はひとつ」というのはただのスローガンであって、本質ではないということはまず踏まえておきたい。「復興のために」や「救援のために」、の「日本はひとつ」というスローガン、もしくはコピーなのであって、あれを本気で受け取ったりするとろくなことはない。だいたいついこないだまで「無縁社会」だなんだと言っていたのが、確かに未曾有の災害を経験したとはいえ、急に「ひとつ」になるものか。だいたい被害の大きかった被災地域以外(というか主に東京)に於いては、結局非常時になったからと言ってしまえばあってもなくても良いとしかいいようのない第三次産業に従事している人間があまりに多すぎる(僕も含めてだが)。しかし休業では食っていけないからほどなくほぼ再開したではないか。


 嫌われることを承知で書けば、今回の地震およびそれに付随する災害(原発の事故は除く)は偶発的事象なのであって、決して「日本」を「ひとつ」にするために神が「天罰」を下した訳なんかではもちろんない。もっと意地の悪いことを言えば、今回の何万という被災者の方々は、「日本」を「ひとつ」にするための人柱だったのだ、とでも言うつもりなのかと。戦後すぐと今回とを同一視するような見方すらあるが、それは大多数の人間が共有出来るような「大前提」が出来た、という程度のことで言ってるのでなく、(困ったことに)もっとウェットなトーンになっていたりする。不謹慎不謹慎とかまびすしいが、そうやって地震をダシにして一見聞こえのいい「押しつけ」をしたがる奴が一番不謹慎なんじゃないか?


 そして、被災者の方々個々人をいっしょくたに可哀想な「無辜の民」としてばかり扱う報道も、いつも通り考えものだと思う。そうやってわかりやすくドラマ化すると「日本」が「ひとつ」になりやすいのだろう。しかし、そういうことではないだろう。いつも女のケツばっか追いかけてたエロジジイも、子供嫌いのクソババアも、トロくてイマイチ使えないと言われがちな新米社会人も、もちろん家族思いのおとっつぁんも、子供の成長ばかりが楽しみなおっかさんも、みんながみんなそういった多様性を無理矢理に削がれるような状況に、望まずして置かれたのだということ、そういうことなんじゃないのか。


 だから、目指すべきは、あらゆるルートの多様性をちゃんと保持していられるような「ちゃんと豊かな社会」の復興、そして維持だと思うのである。例えば電気釜がなくたって、おおざっぱに言えば手鍋に米と水入れて火にかければ飯は炊ける。そういった考え方自体をちゃんと教育に盛り込んでいくのかとか、インフラのどれを利用しても最終的に火を使えるようなシステムが必要なのかとか・・・ひいては、今回のような震災をどう受け止め、どう受け入れるか、個々人のそれを待てる社会のあり方ってどうすればいいのかということを考えるべきだ。


 そんなことを「Lost in Translation」という映画を見ながら考えたりした。映画の中身と関係あるようなないような・・・(笑)。



 さて。これ以上書くと私も「ダシにしてる」だけになるのでこの辺でやめよう。次からはもう通常に戻します。

「Sculpture of Time」/La'cryma Christi

 『Sculpture of Time』―「時間の彫刻」って、なんだ? 「彫刻」ってことは、動かないのか? 「時間」なんて流れていってしまうものなのに。


 違うのだ。ここで流れる時間は、過去があって、今があって、未来があって、というような一方向に「やってきて去る」という性質のみのものではない。例えば、「僕は鉄の塊に乗り空をゆくよ」("Night Flight")における、ある種のレトロフューチャー的感覚。「We are too young to fall asleep!」("南国")と思わず嘆息するときの、老いまでをも射程に含めた感覚。そして、終曲"Blueberry Rain"の最後、「ナイトフライトへゆこうよ」というフレーズで暗示される、1曲目"Night Flight"へと繋がっていく円環構造。そこでより一層意識される、アルバム冒頭の、古ぼけた蓄音機から発せられたかのようなエフェクトによる演出・・・。あまつさえ「時は寝息をたて」("Sanscrit Shower")る。


 ここでは時間が歪んでいる。なぜか。ここに描かれているのは主観的時間だからである。


 主観の世界では、一瞬の出来事が永遠に思え、長きの歴史が一瞬にして頭をよぎったりする。そういうことがここでは起こっているのだ。水平に追い抜かれてゆく鳥達を妙な心持ちで眺め、熱帯を彩る嘘のような色彩の氾濫に心震え、月夜に沐浴する「あなた」に目を奪われ、堆積をむきだしにした風景や、えもいわれぬ鈍く得体の知れない空が不意に記憶をたぐり寄せ・・・その「時」の感覚が、圧倒的密度を誇る豊かなバンドアンサンブルによって具現化している。触れられそうな質感と厚みを持ったこの音は、確かに「彫刻」的である。そして、重要なのは、ここではこれがそのまま生きている実感、むせかえるような「生」の密度の表現に転化しているように感ぜられるということだ。


 「あの時確かに『僕』は生きていた――」


 ・・・あくまでも「過去」という個人的かつ凝固した時間を向いていた前作の方向性を、どこまでも突き詰め、結果反転し、たどり着いたのがこの境地だ。この「時間」は決して終わらず、絶体的に「今」である。閉じているが故に開かれている。そのアンビバレンス。「天才的天然」としか言いようがない。

「Dwellers of a Sandcastle」/La'cryma Christi

 しょーもないことを言うようだが、このジャケット、『Earth VS the Wildhearts』そっくりだよなー(笑)。頭がオイルに浸かってないとか、顔の上に乗ってるのがサソリだけとか、まあ細部は違うんだけどもね。さて、じゃあ音の方はどうかと言うと、もちろんワイハー的なものではない。そうね、ワイハーがビートルズmeetsメタリカであるとすれば、これは・・・うーん、なんだろう、TAKAmeetsプログレという感じとか?(笑)


 と冗談を言ってみたが、大雑把に見て、ラクリマのカラーを決定的にしているのはこの"声"であろう。なんだかんだ言ってもローリング・ストーンズミック・ジャガーの"声"が欠かせないように、このバンドにはTAKAの声が欠かせない。"Warm Snow"や"Forest"といった曲を成立させている決定的要因は、つまりこの"声"である。それらの曲で描かれる、グリム童話の如き、ダークながら魅せられてしまう世界観を音として定着させるために、やはりこの"声"はどうしても必要だ。そのようにまでなってしまった"声"というのは、もはや響きやタイミングの取り方、といった点で楽器と等価である。そしてまた、これが普通のポップスに乗っかってしまったら独特すぎて浮くだろう、というのも想像に難くないが・・・。
 と、一旦規定した上で、やはりそれが浮き上がらず、一体となって"響く"、この濃密な楽器隊のアンサンブルやアレンジの意義というのが初めて語れるのではないだろうか。この"声"が"楽器"的であるとするならば、この楽器隊は言ってみれば"声"的である。控えめに言って、通常のバンドアンサンブルの何倍ものメロディーが、ここには封じ込められている。それぞれの楽器が、バラバラになりかける寸前まで各々勝手なことをやっていて、しかもそれぞれがフックに富んだキャッチーさを持っている。平たく言えば、ブレイクやコードと言った諸々の決めごとをしっかり踏まえた上で「楽器が歌っている」。例えばこれはロックだからそこにギターの音がありさえすればいい、とか、ハットの音がビートに準じて規則的に入っていればいいとか、そうした次元ではない。詞が導く曲想を芯に、絶妙なバランスでバラけたり、一体化したりしてみせる。それはまさに溢れ出るイマジネーションの豊かさであり、まるでフェリーニの映画のようだ。

 ・・・と、このように、二つの倒錯的現象がひとつになるところに、まずこのバンドの根本的な魅力がある。この"声"に平たい演奏はありえないし、凡庸な"声"ではこの濃密な楽器隊に負けてしまう。


 さて、そうは言ってもだ、やっぱりこれはどこか原石的な作品であって、メジャーな作品として通用するレベルとしては次作以降に比べると落ちるだろう。それは端的に言えば、全くリアルタイム感を欠いた"追憶"的要素、もっと言えば"死"のイメージに方向付けられた詞に明らかだと思う。広く聞き手に訴求する作品にとって問題なのは、いかに開かれているかであり、それはこのバンドにとっては、過去への眼差しに向かいがちな(プログレやハードロックを含めた音楽全般の、偉大なる先達の残した)"蓄積"をいかに現在ひいては未来に生きるものに仕上げていくか、ということだろう。それをなし得る潜在的なポテンシャルとしてもこの"声"はあるし、控えめながら機能してもいるが。


 よく出来てはいる。バンド像もしっかり提示出来ている。しかし、このバンドが化けるのはこの次からなのである。

シトロンの雨」/田村ゆかり

 まず、思うに前作はある種の「原点回帰」であったのだなあ、と。この際だから断言するが、「かわいい」の枠を突き破り、まるで祈りのようでもある「Tomorrow」に代表されるような、確固たる意思による一点突破的な楽曲群として纏められた前作で、ゆかりんは脱皮し、かつ主張することをためらわない「アーティスト」に、名実共になったのだと思う。無論それまでの作品の出来が良くない、などということはなく、むしろそこに込められた(装飾性も含めた)こだわりは単なる「商品」を遥かに上回る価値を作品に与えていたと思う。しかし前作を通して窺い知れるある種の「確たる意思」(と、そのことの感動)を前にすると、やはりあそこで一回区切りがあり、そして始まっているものがあると感じる。「アイドル声優」の作品として成立しつつも、しかしどこか地に足の着いた佇まい・・・「かわいい」とは何か、「女の子」とはどういうものか、そして今の自分、これからの自分はそういったこととどう付き合っていくのか・・・そういったことに対するある種の「けじめ」、みたいなものが前作の根底にあったように僕には見える。これは特定の歌詞がどう、という話ではなくて、トータルな雰囲気というしかないのだが・・・。


さて、そこで今回の作品である。まず単体の作品として、なんでもありの曲調(アレンジ)のバラエティー、変幻自在な(時に「萌え〜」な)本人の歌唱、と、むしろ従前の(具体的には5th『銀の旋律、記憶の水音』だろうか)作風に戻ったような「幕の内」なアルバムとして、飽きさせず、クオリティーも相変わらず高い。普通の「ポップス」作品として、これだけでも十分称賛に値すると思う。



 しかし個人的には、もう少しヒストリカルな捉え方をしたい。つまり前作あってこその今作、ということ。ある意味で「素」を覗かせるような前作を経て、さて今度はもっと深く、そして思いっきり自由に「アイドル声優」してみようか・・・そんな吟持すら感じさせる作品になっている。冒頭のハードロッキンな「Heavenly Stars」における(いい意味での)「うるささ」はその証左ではないだろうか? それに「ラブラブベイビーハッピースター」(このタイトル!)における「萌え系ですがなにか?」と言わんばかりの開き直りときたら! まさかの男声ラップ(M.O.V.Eのmotsu)を絡めたコテコテなユーロビート「You & Me」にはその突き抜け方に思わず拍手してしまうし、実はアダルティーな新機軸なのに引き続きのmotsu登板ですんなり聴けてしまう「Love Sick」への繋ぎも冴えているし、「砂落ちる水の宮殿」「神聖炉」と続くかつてないスケール感を漂わせた民族音楽路線は一見裏をかいたようでもり、懐の深さを感じさせるようでもあり・・・と、ついうっかり前作のレビューで「『アイドル声優』、いいでしょう、引き受けましょう、でもやるからにはとことんやるし、そこで安穏としたりはしませんよ、という意思表示だと思う」などと書いてしまったが、もしかしたらこれは今回のアルバムのために取っておくべきフレーズだったかもしれない。全編フィクショナルな仕立てが小気味よいほどでありながら、しかしそこに耽溺しない力強さ、はっきりした意思の輪郭・・・作品全体に漲るなんとも言えない開放感の正体は、この二つの両立ではないか。つまり、正々堂々と、しかもノリノリで、だけど正気で「アイドル声優」をやってみせるということ。しかも過去の実績は何も捨てていないのだ。だから縮小再生産にもなっていない。ある意味貫禄と余裕すら窺える「大文字の田村ゆかり」・・・よくわかんないが、確かにそんな感じなのだ。



以上踏まえて、今後は「ゆかり兄さん」と呼びたい。いや、呼ばれても困るだろうが(笑)。それにしてもプロフェッショナルだよなあ。感服。



あけましておめでとうございます。

今年・・・じゃなかった去年、は、早々に年賀状が出来たので、余裕を持って大晦日はその印刷などしておりました。例年ならまだ下絵描いてるスケジュールだもんな・・・。でもって、それをポストに入れがてら買い物に行き、ついでに初詣も済ませてみた、という・・・えーっと、たぶんそんなの10年ぶりぐらいです・・・(泣)。

でまあ、紅白をなんとなく見たり見なかったりウルトラヴォックス聴いたりしながら印刷してたんだけど、あれだな、氷川きよし。奴はもしかしたらカッコいいかもしんない。演出のせいもあったのだろうか・・・あの曲自体はラジオ(文化放送)で死ぬ程聴いて(聴かされて)いたんだが、なんだろうね。ちゃんと歌詞を眺めながら聴いたせいなのか、印象全然違うんでやんの。あ、後ろで応援とかされてない感が良かったのか・・・というのは冗談としても、うーん・・・なんだべな。


画は年賀状の図案。今年はこの人たちが陽の目を見ることが出来るような展開に・・・したいですな。



※'11 7/10追記:画像をアップし直してみました。ついでに手直し・・・というかパソが壊れて元データが一切消失したので、線画から後はほぼ作り直しですが・・・

世界が僕らを待っている

 ども、お久しぶりです。約8ヶ月ぶりですか。皆さん元気してましたか。いやその、実はこの半年程海外へ行ってましてね、そのおかげでいろいろとバタバタと・・・嘘ですが。ていうかそんな金がどこにあるってんだよ! ふん! こちとら相変わらずの安月給フリーター生活だよ!・・・あ、なんかリアルで嫌ですね、こういうの。


 というわけでせめて心だけでも世界旅行、というのではないですがこのところこんなの聴いてましたよというメモで、まあ挨拶のようなものとしておきます。たぶんこんだけ音楽旺盛に聴いてりゃ元気だろってみんな思うだろ(投げやり)。




アダム・アント「エッセンシャル:アダム・アント」

 とりあえずドンドコドンドコと。海賊ルックなんてので出てきた(そんでもってジュリーがパクった)のが何故かヨーロッパ貴族風にイメチェンしたりしたバンド時代から、唐突にドンドコロカビリーし始め、あげくスペース・カウボーイとかのたまい始めるソロまで、アダム兄貴の天然っぷりには降参するしかありません(でもカッコイイ)。これでPVの類が垢抜けてたら最高だった気もしますが、このドンドコリズムだけでも十分わけのわかんない高揚感と共になんか非日常に迷い込んだ感満点。


ウルトラヴォックス「ヴィエナ」

 まずタイトル曲を聴けと。これがテクノだと。クラフトワークかよっつうかまんまなリズムボックスにお前ら思い知れよと。そんでもってニューヨーロピアンズのカッティングで昇天しちまえと(見ず知らずの人を勝手に殺すなよ・・・って、なんか違う文脈の言葉っぽくなってしまった)。ヨーロッパ耽美テクノここに極まれり。とにかく抜けのいい、でもぶっとい巨匠コニー・プランク謹製のプロダクションと、ミッジ・ユーロの「なんかいい声!」の素晴らしい結晶体。そりゃヒットするよな。前作「システム・オブ・ロマンス」次作「エデンの嵐」もいいんですが、僕は断然これ。他のはこれから聴きます、ってかちゃんとした日本盤は出ないのか。


加藤和彦「VENEZIA」

 書いといてなんですがこれのCD版は超プレミア品で当然持ってないです。じゃあどうやって聴いてんのかっていうと、Youtubeから適当に落としてきてmp3にしてるという・・・いい加減聴き込んで殆ど口ずさめる程なので、近いうちにソニーの公式からmp3買おうとは思っている(ウチのパソコンはMacなので非対応なのです)。まあそんなですが作品そのものは疑いようもなく傑作。「首のないマドンナ」だとか「真夜中のバレリーナ」だとか、Ultravoxとは違う意味でのヨーロッパ耽美ですが、こっちのがほうが多分に趣味的というか、工芸品的というか、正に「お耽美」ですよね。でも好き。あれだ、萩尾望都の漫画みたいな(わかる人には死ぬ程わかると思う)。それにしても惜しい人を亡くしたものです。


ラクリマ・クリスティ「Sculpture of Time」

 個人的にはイタリアっぽいイメージ(インディーズの時のPVはイタリアロケでしたね・・・)。入手自体はもう8年前(大学入試の頃)なんですが、良いものは時間が経っても良いのです、と胸を張って言いたい(僕が胸を張ってもまあナンですが)。むしろ時間が経つ程味わいが深まる、これはまるでワインのようですね、とか下戸の自分が言ってみる。余計なこと言わなきゃ良いのに。ともかく聴けば聴く程唸ってしまう、「大人」なバンドアンサンブルの一級品。サンスクリットフラワーとかついこないだまで苦手だった筈なんですが、今はこのミドルテンポなノリがとてもしっくりくる。なんだ、俺が成長したのかこれ。


XTC「イングリッシュ・セトゥルメント」

 一気に世界一周っぽく。ワールドミュージックつうんですか、こういうの。そういう定義とかよく知らんけど。それにしても一枚のアルバム(LPは二枚組)でこんなにいろんなことを、しかもガッツリやってるってのは凄い。個人的にはQueenの4枚目なんかよりよっぽど尊敬するであります。リマスター盤のが音が良いのは明らかですが、実は再発前の「セツルメント」っつう邦題の語感のなんとも言えないインチキ外国感も捨て難いとか通じんのかそれって感じでスイマセン。このコクとまろやかさ(カレーかよ)は是非読書のお供にしたいですな。その意味では次作「ママー」やずっと後の「ノンサッチ」もうってつけ、かつ違う方向性ながら傑作だと思う(けど一般的には低評価。何故?)。


ムーン・ライダース「カメラ=万年筆」

 もはや異世界だ、これは。スッカスカなバンドサウンドながら、逆にそれがなんか、こう日常に垣間見ちゃった非日常というか、超現実的というか、シュールレアリズム?っていうか、そんな感じで。ゴダールやらなんやらの映画のタイトルからの頂きってのもそれだけだとなんかオッサン趣味臭いですが、しかしこの音だと歌詞の無関係っぷりも甚だしくむしろ異化効果っぽくてまた良し。


甲斐よしひろ「ストレート・ライフ」

 そこ、いきなりなんじゃそれとか言わない。って失礼なこと書いてるな。うんでもこれはなかなかソロの作品としてよく出来ておるですよ。舞台としては主にニューヨークな感じで、都市の中のドラマを写し取ったそれこそ「アルバム」のような作品。殆ど打ち込みなのもまたその世界観の演出として、また「これはソロなんだぜ!」感アリアリではっちゃけてて良し。夜に聴くと本当しっとりしててなおかつ都市の冴えた感じ?というか、そんな雰囲気も味わえて、味わい深かですたい(インチキ福岡弁)。



 という感じで書くだけ書いて終わる。またいつか。