lost in translation

 (こういう言い方もまた「不謹慎」なのかもしれないが、)もう完全に時機を逸してしまってる気もするので特に触れずにおこうかと思っていたのだけれど、でもやっぱり触れようと思う、3・11の話。



 実は私自身、数少ない大学時代の知り合いの中に、福島生まれで、卒業後はあちらで仕事している人間がいる。しかし、心配は心配でも「大丈夫か!?」と騒ぐ程の関係ではないし、彼もきっと面食らうのではないか、とそんな気がしていたら、とりあえず無事で、しかも上京して花見をするという。しかし私は職業柄どうしてもこの時期の日曜は休めないので、欠席・・・まあ、そんなものだよな、と思った。まあこの先カラオケで一緒になることはあると思うので(今は何年かに一度そういうことがある、という程度の関係なのだ)、そんときに「相変わらず喉で歌ってんなこんにゃろ」とか言ってやれればいいかな、とかも思っている。


 あちらはあちらの現実がある、しかしこちらはこちらで現実がある。それはやっぱり事実なのだろう。


 とりあえず「日本はひとつ」というのはただのスローガンであって、本質ではないということはまず踏まえておきたい。「復興のために」や「救援のために」、の「日本はひとつ」というスローガン、もしくはコピーなのであって、あれを本気で受け取ったりするとろくなことはない。だいたいついこないだまで「無縁社会」だなんだと言っていたのが、確かに未曾有の災害を経験したとはいえ、急に「ひとつ」になるものか。だいたい被害の大きかった被災地域以外(というか主に東京)に於いては、結局非常時になったからと言ってしまえばあってもなくても良いとしかいいようのない第三次産業に従事している人間があまりに多すぎる(僕も含めてだが)。しかし休業では食っていけないからほどなくほぼ再開したではないか。


 嫌われることを承知で書けば、今回の地震およびそれに付随する災害(原発の事故は除く)は偶発的事象なのであって、決して「日本」を「ひとつ」にするために神が「天罰」を下した訳なんかではもちろんない。もっと意地の悪いことを言えば、今回の何万という被災者の方々は、「日本」を「ひとつ」にするための人柱だったのだ、とでも言うつもりなのかと。戦後すぐと今回とを同一視するような見方すらあるが、それは大多数の人間が共有出来るような「大前提」が出来た、という程度のことで言ってるのでなく、(困ったことに)もっとウェットなトーンになっていたりする。不謹慎不謹慎とかまびすしいが、そうやって地震をダシにして一見聞こえのいい「押しつけ」をしたがる奴が一番不謹慎なんじゃないか?


 そして、被災者の方々個々人をいっしょくたに可哀想な「無辜の民」としてばかり扱う報道も、いつも通り考えものだと思う。そうやってわかりやすくドラマ化すると「日本」が「ひとつ」になりやすいのだろう。しかし、そういうことではないだろう。いつも女のケツばっか追いかけてたエロジジイも、子供嫌いのクソババアも、トロくてイマイチ使えないと言われがちな新米社会人も、もちろん家族思いのおとっつぁんも、子供の成長ばかりが楽しみなおっかさんも、みんながみんなそういった多様性を無理矢理に削がれるような状況に、望まずして置かれたのだということ、そういうことなんじゃないのか。


 だから、目指すべきは、あらゆるルートの多様性をちゃんと保持していられるような「ちゃんと豊かな社会」の復興、そして維持だと思うのである。例えば電気釜がなくたって、おおざっぱに言えば手鍋に米と水入れて火にかければ飯は炊ける。そういった考え方自体をちゃんと教育に盛り込んでいくのかとか、インフラのどれを利用しても最終的に火を使えるようなシステムが必要なのかとか・・・ひいては、今回のような震災をどう受け止め、どう受け入れるか、個々人のそれを待てる社会のあり方ってどうすればいいのかということを考えるべきだ。


 そんなことを「Lost in Translation」という映画を見ながら考えたりした。映画の中身と関係あるようなないような・・・(笑)。



 さて。これ以上書くと私も「ダシにしてる」だけになるのでこの辺でやめよう。次からはもう通常に戻します。