アニメの見すぎです。

 録画しといてなんとなく放置していた『Another』を今頃から一気見しているのだが、しかし、どうなんだろうかこれ。面白いというか、怖いの?



 その昔、つまり私が小学生の頃(本当に昔だな)に流行っていて回し読みされていた「学校の怪談」とかそういった本って、確かに怖かった。しかし、それにしたって「修学旅行の夜に皆が寝てる中こっそり旅館を抜け出した同級生の後をつけてったら墓場荒らして骨食ってた」みたいなハナシだったわけだけれど、今怖いかっていったら・・・と、思う。怖いかどうかというかより、アラみたいなものが見えるのだ。「で、結局それからどうなったの?」という問いが、今だったらすぐさま浮かんでしまう。はたして主人公君は、結局その面妖な友人と、翌日どう過ごし、修学旅行の残りをどう過ごし、また帰ってからの毎日の学校生活をどう過ごしたのか・・・。そう考えると、なぜか怖さがなくなっていく。だってまあ、言ってしまえばギャグになっちまうからね。

 たまたま唯一覚えているこのエピソードが、実は象徴的なんだけれど、結局このテのハナシってのは、「学校という(または学校的な)閉鎖空間」てのがカギなんじゃないかと思う。それを実感していた小学生の頃であれば、学校の「外」を連想させるこのテのエピソードも、しっかり「閉鎖性」を補完して怖がれたけれども、今となっては・・・。というか、中学生の頃に塾をサボって中古のレコード屋めぐりを始めた頃からこのテのって怖くなくなっていったんだけれどもね。



 話を戻そう。「Another」についてなんだが、26年(四半世紀だ)も犠牲者を出し続けてるってどういうこと?っていうのがよくわからない。そんでその対策を生徒ばっかしがやってるってのもよくわからない。仮にオカルトだからってんで学校が何も対策しないんだとしても、実害ははっきり出てる事だし、普通は子供たちの親が騒いでこんな町出て行きそうな気もするんだが、なぜそうしないのか。2クラス分まで子供が減れば「3組」とやらがそもそも出来ないので、騒ぐまでもない。

 結局、「閉鎖性」に穴がありすぎるので、それで騒いでいるっていうこと自体が理解出来ないのだ。だから、怖くもない。言ってしまえば、ギャグにしかなっていない。大林宣彦の『HOUSE』並だよね・・・とか言うとおっさんにしか通じないが、これだからオタク向けアニメは・・・とか言うと、カドが立つので・・・もう、やめにしますか。



 ・・・しっかし、背景のクオリティーはやたらいいんだよなあ。

ほっとすぺーす。

堀江由衣の新曲のジャケットがQueenの「Hot Space」と同じ配色な件。


これデザインした人ツッコんで欲しいだろうなーと思ったので、ツッコんでみる。これで
曲もエロエロなファンクだったら良かったのになー・・・惜しい!(そうか?)


あとあけおめです。ことよろで。

エチケット感想(速報)

 ヤバイ。マジヤバイ。



 昨日放送の岡村靖幸のライブ特番を、見たのだけれど・・・。


 いや、正直ナメてました。こんなに自信満々で、声は出まくりで、動きはキレキレ、かつアクションがデカくて映える、なにより表情が豊かで、ライブ楽しー!って感じが伝わってくる・・・そんな岡村ちゃんが見れるとは・・・。あの伝説の「家庭教師」ライブに匹敵する、掛け値なしにスゴイ岡村ちゃん。なんつーか、動きを極めた職人アニメーターによる渾身の仕事を見てるみたいだ(笑)。いやはや恐れ入った。個人的にはコレか『家庭教師』か、というくらい、岡村靖幸のライブ映像としちゃ決定版だと思う。ワカンナイというか、マイナーな喩えだけど、「Really Love Ya!」のジュリー並に(いい意味で)信じられないものを観た気分。ここ数年のライブより、観せ方というか、演出というか、段違いに練られてるし。何より、本人がオーラありまくり。ベタだけど、岡村ちゃんはやっぱスターですね、と思った。

 というわけで、スペシャが見れる人は是非。というか、「騙されたと思って・・・」とかなんとか、初心者にも是非勧めてみたい。

拝啓EMI殿

 前回の日記読み返してたら、なんか『表徴の帝国』みたいだなと思った。なのでよくわからんかったって人は『表徴の帝国』を読んでみるといいと思うよ・・・まあ確実にあっちのほうが難しいと思うってか、たぶん僕の文章がマズいだけな気もする。うん。


 さて。


 今年は結成40年(!)とかフレディー没後20年(!)とかで、クイーンのリマスタリング再発が一気にドカッと為されたりなんてしておるわけですが、しかしこのSHM-CDだの年内生産限定のボーナス・ディスクだのとなんだかいろいろあって正直悩ましい・・・ま、どこにそんな(全部買うほどの)金があるかー!と、単純にそういう事情もあったりするわけなんですが、えー・・・どうなんだ(笑)。



 とりあえずSHM-CDっちゅーのはどうなんでしょ。試しにジュリーの「A面コレクション」('09年再発盤)を借りてきてみたりもしたわけなんだが・・・正直、僕の耳にはそんなに「いい音!」に聴こえなかったりする。「Royal Straight Flush 1971〜1979」('96、通称「白盤」)とか、あとは「Royal Straight Flush」のリマスター再発盤('05)と較べたりもしたんだけど、うーん、違うかなあ・・・。amazonのレビューとかだと「こんなクリアなジュリーは初めて聴いた!」みたいな人まで居るんだが、どうもここ最近のリマスター音源との比較かどうかがはっきりしないので・・・ま、その、「それってずいぶん久しぶりにジュリー聴いたんじゃ?」みたいなツッコミをしたくならなくもない。というか、私は「白盤」(と「黒盤」)で十分・・・って話がすごく逸れてますね。ま、要するに「SHM-CD効果」ってのがちょっと疑問。まあ盤によって「効果」の多寡はあるそうなんだけど・・・で、この「SHM-CD問題」は輸入盤にするのか国内盤にするのかっていうひとつの分岐点になるわけです。


 で、ボーナス・ディスクに関しては、実に気に入らないですよね(笑)。フツーにレギュラー盤を二種類で出せばいいじゃねえかと思うんだが。だいたい間違いなくこの「生産限定版」って後々プレミアつくだろっていう。そんでそこから逆算させた上で、短い期間で買っとかなきゃと思わせよう・・・という魂胆が透け透けなのが、なんとも。なんかね、俺の愛するクイーン(笑)でそういうことやられるのが非常にシャクなんです・・・いやまあ、「俺の愛するクイーン」とかそのように書いてみた(ついでに笑ってみた)が、しかしクイーンって非常に間口の広い、浅くも深くも聴けるよ、っていうバンドだと思うし、その「来る者拒まず」で、エンターテイメントに徹するところがクイーンのクイーンたる所以、最大の「らしさ」だと思うのよね・・・なので、チャチな商売はして欲しくないなあ・・・という、ね。で、これが「生産限定盤」と「通常盤」の分岐点になるわけです。


 そして、だ。


 最後にものっすごく個人的なところになるんだが、僕はわりと'94年のリマスター盤に愛着があるんですよね。どの辺が、っていうと、ライナーノーツなんですけど・・・。や、まあ、音質もまあまあ聴けるレベルだと思うし、その意味での愛着もあるんだけど、それと同等くらいに、'94年盤における「河合美穂」さんなる方の手になるライナーノーツが好きなのですよ。

クイーンは単純なポップロック・バンドには決してなり得ない。一言で言えば『楽しい』の奥が深いのだ。おそらく彼らは、一番苦しい辛い時にこそ、『人生は楽しい!』と笑って言ってしまうような種類の人達なのだろう。落ち込んだ時は、試しに『ジャズ』を聴いてみるといい。たぶん『ドント・ストップ・ミー・ナウ』あたりで、頭を振りながら一緒に声を張り上げ歌っている自分に気が付く事だろう。これはそういうアルバムなのだ、嬉しい事に!


・・・と、思わず引用が長くなったが、しかしどうだろう、実に愛を感じるではありませんか。「河合美穂」さんというのはどうやらクイーンのファンクラブの方らしいのだが、それも納得の、実にクイーンを「わかっている」、愛に溢れた素晴らしいライナーノーツが、'94年盤には全てのアルバムに付属していた。岡村ちゃんじゃないけど、ライナーノーツを読む楽しみみたいなものを意識したのははっきり言ってこの文章群だったと思う。なので、まずはこの'94年盤を買い揃えてから・・・あ、3枚ほど抜けてるんですよ・・・、その後で今回のリマスターに手を出そうかな、とか考えちゃうと益々お金がない!



 ・・・って、最後はなんだかよくわからない話になってしまった気もするが、以上3点考えて、まずSHM-CD効果が微妙であるとしたら(ま、どうだかは聴いてみなきゃ分からないけど)輸入盤に的を絞って、ボーナス・ディスクについては中身を各々のアルバム毎に吟味して・・・って感じで考えているんだけど、きっと考えているうちに年も明けてしまう気がする。ま、悩んでるうちが一番楽しいわけで。


 ・・・しかしそうそう何度もリマスターするってのもどうかと思うが。一発で決定版を出せよな、EMI。

「サムライ」を考える。

 と、言ってもラストサムライ的なソレではなく、ジュリーです。ほら、あったでしょ、沢田研二のヒット曲で、「サムライ」。


 片手にピストル
 心に花束
 唇に火の酒
 背中に人生を
 アア アアア アア アアア




ってなわけで、「男は誰でも不幸なサムライ 花園で眠れぬこともあるんだよ」なんて続いてく歌な訳ですが、だからといって、これはまんまベタに「男のやせがまんの美しさ」の歌として成立している・・・わけではない。阿久悠の狙いは恐らくそうだったであろう。が、しかしだ。まずもって我々は気付かねばならない。「男のやせがまんの美しさ」などはネタであると。例えば歌番組に於ける、この曲のパフォーマンス(youtubeあたりを探してみてください)ときたら、畳敷きに短刀、ナチスの腕章、素肌(に見える、おそらくナイロン素材)に散りばめたスパンコール・・・あきらかにやり過ぎである。そしてまた、これがしたたかな、そしてフマジメな、わけても「サムライ」の一語に象徴されるなんらかの(昨今ありがちな)ナショナリズム(まがい)とは一線を画している、その証左である。まあ、わけてもハーケンクロイツに関しては物議を醸したそうだが、それ即ち、そういうものをネタとして、つまりロマンチシズムの象徴として見ることの出来る時代になっていた、ということを、メディアを通して認めてしまうような行為(と、見えてしまった)であるからこその反応であったと見るのが自然だろう。そしてそういう反応の裏をかくように・・・というわけでもないのだろうが、歌ってる本人が「いや、町人とか農民もいないとマズいでしょ」とか思いながら歌っていた、という・・・。役柄の感情になりきって、なんて芝居のセオリーがあるが、だがしかし、どこにも「サムライ」の核心などありはしない。この歌は、歌われた(演じられた)瞬間に、骨を抜かれ、そして別のなにか・・・それは恐らく芸能の本質とも呼べる、如何なる尺度からも解放されたものの現出・・・へと変貌を遂げている。まあ簡単に言えば「正しくエンタメ」になってってことで、だからこそヒットしたし、今聞いても全然オッケーなんじゃないっすか、っていう。


 そしてまあお決まりのように、「ま、ジュリーだからこそ成立したんだと思うけどね!」という結論で〆る。夜ヒットDVDの発売日が待ち遠しいです・・・というわけで、そういうことです。

だるい。

 もっといいかげんに生きたい。と、書いてみたところで僕は全生活をホイホイとネットで開示してる訳ではないので、普段の(・・・「リアル」の?)僕がどんだけ慎ましくストイックであるか、みんなわかんないと思うけどなっ!


 ・・・っていうウソをついてみる。と、書いてみたところで(以下略



 しかし「リアル」ってなんなんだ「リアル」って。昨年末は「リア充爆発しろって感じですよね〜」って会話をたまたま耳にして驚いたりしたが・・・「リア充」とか「リア充爆発しろ」とかって、いつから口語になったんだっていう・・・。あんなのネットでだけ使われてんじゃないの?って思ったんだけど、いやあ実際どうなんだろう。あまりそういう会話をしそうな世代とか文化の連中との交流が今はないので、ぶっちゃけよくわからん。しかしもし仮に「リア充」だの「リア充爆発しろ」だのを日常用語として使う人達にとっては、そんな日々こそが「リアル」なのだろう・・・か。なんて。なんとなくというかやっぱりというか、そのテの言葉はどうしてもノリで使う言葉だろうなって気もするので、だとしたらその言葉、ひいてはそれを日常的に使う日々・・・なんてのも「リアル」ではないのではないか。


 さあ、あなたの「リアル」はどこかな?(とか言って放り出して終わる)