「サムライ」を考える。

 と、言ってもラストサムライ的なソレではなく、ジュリーです。ほら、あったでしょ、沢田研二のヒット曲で、「サムライ」。


 片手にピストル
 心に花束
 唇に火の酒
 背中に人生を
 アア アアア アア アアア




ってなわけで、「男は誰でも不幸なサムライ 花園で眠れぬこともあるんだよ」なんて続いてく歌な訳ですが、だからといって、これはまんまベタに「男のやせがまんの美しさ」の歌として成立している・・・わけではない。阿久悠の狙いは恐らくそうだったであろう。が、しかしだ。まずもって我々は気付かねばならない。「男のやせがまんの美しさ」などはネタであると。例えば歌番組に於ける、この曲のパフォーマンス(youtubeあたりを探してみてください)ときたら、畳敷きに短刀、ナチスの腕章、素肌(に見える、おそらくナイロン素材)に散りばめたスパンコール・・・あきらかにやり過ぎである。そしてまた、これがしたたかな、そしてフマジメな、わけても「サムライ」の一語に象徴されるなんらかの(昨今ありがちな)ナショナリズム(まがい)とは一線を画している、その証左である。まあ、わけてもハーケンクロイツに関しては物議を醸したそうだが、それ即ち、そういうものをネタとして、つまりロマンチシズムの象徴として見ることの出来る時代になっていた、ということを、メディアを通して認めてしまうような行為(と、見えてしまった)であるからこその反応であったと見るのが自然だろう。そしてそういう反応の裏をかくように・・・というわけでもないのだろうが、歌ってる本人が「いや、町人とか農民もいないとマズいでしょ」とか思いながら歌っていた、という・・・。役柄の感情になりきって、なんて芝居のセオリーがあるが、だがしかし、どこにも「サムライ」の核心などありはしない。この歌は、歌われた(演じられた)瞬間に、骨を抜かれ、そして別のなにか・・・それは恐らく芸能の本質とも呼べる、如何なる尺度からも解放されたものの現出・・・へと変貌を遂げている。まあ簡単に言えば「正しくエンタメ」になってってことで、だからこそヒットしたし、今聞いても全然オッケーなんじゃないっすか、っていう。


 そしてまあお決まりのように、「ま、ジュリーだからこそ成立したんだと思うけどね!」という結論で〆る。夜ヒットDVDの発売日が待ち遠しいです・・・というわけで、そういうことです。