「Sculpture of Time」/La'cryma Christi

 『Sculpture of Time』―「時間の彫刻」って、なんだ? 「彫刻」ってことは、動かないのか? 「時間」なんて流れていってしまうものなのに。


 違うのだ。ここで流れる時間は、過去があって、今があって、未来があって、というような一方向に「やってきて去る」という性質のみのものではない。例えば、「僕は鉄の塊に乗り空をゆくよ」("Night Flight")における、ある種のレトロフューチャー的感覚。「We are too young to fall asleep!」("南国")と思わず嘆息するときの、老いまでをも射程に含めた感覚。そして、終曲"Blueberry Rain"の最後、「ナイトフライトへゆこうよ」というフレーズで暗示される、1曲目"Night Flight"へと繋がっていく円環構造。そこでより一層意識される、アルバム冒頭の、古ぼけた蓄音機から発せられたかのようなエフェクトによる演出・・・。あまつさえ「時は寝息をたて」("Sanscrit Shower")る。


 ここでは時間が歪んでいる。なぜか。ここに描かれているのは主観的時間だからである。


 主観の世界では、一瞬の出来事が永遠に思え、長きの歴史が一瞬にして頭をよぎったりする。そういうことがここでは起こっているのだ。水平に追い抜かれてゆく鳥達を妙な心持ちで眺め、熱帯を彩る嘘のような色彩の氾濫に心震え、月夜に沐浴する「あなた」に目を奪われ、堆積をむきだしにした風景や、えもいわれぬ鈍く得体の知れない空が不意に記憶をたぐり寄せ・・・その「時」の感覚が、圧倒的密度を誇る豊かなバンドアンサンブルによって具現化している。触れられそうな質感と厚みを持ったこの音は、確かに「彫刻」的である。そして、重要なのは、ここではこれがそのまま生きている実感、むせかえるような「生」の密度の表現に転化しているように感ぜられるということだ。


 「あの時確かに『僕』は生きていた――」


 ・・・あくまでも「過去」という個人的かつ凝固した時間を向いていた前作の方向性を、どこまでも突き詰め、結果反転し、たどり着いたのがこの境地だ。この「時間」は決して終わらず、絶体的に「今」である。閉じているが故に開かれている。そのアンビバレンス。「天才的天然」としか言いようがない。