蔵出し小論考

 NHK BS2にて安井かずみの特集番組(没後15年だったからかな・・・)を見る。とりあえずジュリーが素晴らしい・・・って、番組自体ももちろんちゃんと楽しんだのだけれども。


 さて、そんなジュリーのベスト盤(曲順が発表順になっているモノね)など聴いていると、その歌唱力というか、完成度において、ついうっかり歴史体験をしたような気になってくる。恐らく本人の意図しないところで、ジュリーの歌というのは、「歴史」というものに肩を並べうるような存在感を放っている。例えていうなら建築か。例えば『危険なふたり』の頃は女の人が若い男の子とくっついたりする(若いツバメってこと?)のが普通だったのかとか、『TOKIO』の頃は日本がアゲアゲで、ハイテクで・・・とか、『6番目のユ・ウ・ウ・ツ』の頃は日本中ニューロマで・・・とか、そんな気がしてくるのだが、恐らくそんなことはないだろう、きっと。最先端とか流行に近しい部分(憧れ?)を歌ってはいた筈だと思うのだが、ま、その辺は当時を生きてた人にしか判らないだろうけど、そんな誤解をさせてくれるほどに彼の歌声は説得力がある、と言える一面は間違いなく、ある。


 その(僕の中の)誤解の最たるものが'86年〜'88年のCOCOLO期で、折しもバブル期、どうやら時代のムードとしては相当にイケイケで(なんか死語っぽい・・・)、その反動としてのニューアカだのなんだのも、殆どが知の(もしくは、精神性の)商品化と呼べそうなものだったと思しいのだが、この時期、ジュリーというか沢田さんの歌は大変ストイック。「人の世から遠ざかると 心が 情けが 見えてくる」(『明星-Venus-』)だもんなあ・・・。いかがわしさや商品化の対極にある宗教性と言えそうだ。


 そして僕は「'80年代末期って、こんなにストイックな時代だったのか!」と勘違いしていたのだ。もちろん'89年の「彼は眠れない」からジュリーもそういったギラギラした時代に向かっていくのだけれども、それは時流に乗るというよりも、時代への挑戦と呼べるものだ。敢えて同じ土俵に乗って、「歌謡曲からJ-POPへ」という時流に、プロとして立ち向かう・・・という。その行き着く先の『Beautiful World』('92)辺りでのソフィスティケート・・・これは少々時代に添いすぎてる気もするが恐らくそれは当人にとってもそうだったのだろう、ゆえに反動としての『SUR』('95)以降のセルフプロデュース、歌謡曲的「どぎつさ」への積極的なアプローチがあり、となって・・・って、なんだ、やっぱりジュリーって、ある一面での「歴史」じゃんという、そんなことを思ったのでした。その意味でこういったベスト盤にうっかり「編年体」という言葉すら与えてしまいそうになるのです。<'09. 11.>



・・・あ、あけましておめでとうございます。んー・・・もう寒中見舞いかな・・・という引け目が文字の小ささに出ている、と思う。まあなんだな、今年はちゃんと絵を描こうと思った。年賀状の一枚くらい余力で描けないとなんかどうも哀しい・・・。





あ、書こうと思ってたこと忘れちった。まあいいか。


『Silent Eveを待ちながら』



 ・・・視界の端で隣のビルのイルミネーションが流れてゆくのを感じながら、僕はまた昔のことを思い出していた。まだ小さな僕の手の上に、ラッピングされた小さな箱が乗っている。やーいあいつ、自分の持ってきたプレゼント廻ってきてやんの――誰かの騒ぐ声。幼い僕は表情もなく、ただ立ち尽くす。




 ――ね、 あの若いほうの警備員、ヘビみたいでしょ?

 うわウソマッジー・・・はしゃぐような声を遠くに、僕は聞こえないふりをする。この詰所の小窓の向こうで、人の流れを無表情に見送る。気にすんな、と年長の同僚――チョーさんという――が言った。気にしてるように見えたのだろうか。

 あの子ならどう思うだろう? 広報のパンフレットにも今時載らないような工夫のない制服の着こなし――名前は知らない。別に顔が整っていないようなわけでもないのに、いつも申し訳なさそうな顔をしている、目立たなさそうな若い女子社員。

 監視カメラの死角――毎晩、僕は見回りがてら長い廊下でステップを踏み、階段の手すりで新体操の真似事をする。そしてうっかり、居残っているあの子の手元を懐中電灯で照らし出してしまう。周りの机には誰もいない。




 ・・・あの子は僕の制止の声をきっかけにするかのように急いで屋上の柵を乗り越えた。そして手すりを離し、夜景と向き合うかのように少しの間動きを止めた。何かに押されるように、僕は早回しで駆け続ける。




 ある朝僕は声もなく、自分の出てきたビルを見上げていた。幅は僕の視界を超えそうで、先っぽは霞んで良く見えない。身震いして、僕は歩き出す。出社してくる背広姿たちが、ただ下を向きながら、僕と反対に歩いていく。背の高いビルとビルの隙間に、不気味に広い空が広がっている。

 カーテンの隙間からの強い日差し。クーラーの音の中、僕は寝付けず、TVゲームを始める。そういえばあの子、ちゃんと息抜きしてるのかな――ぼんやり思いながら、慣れた手つきで、敵機を撃ち落としていく。




 詰所のクリスマスツリーになんとなく気をとられていると、そろそろ向かいのコンビニの弁当が安くなる時間だな――と、チョーさんが言いきりもしないうちに、モニターに向かってあっ、と声を上げた。

 ――屋上に誰か出たみてえだ。




 ・・・音もなく空中へ歩き出すあの子の手首を、僕は掴んだ。つま先があてもなく弧を描いて、ビルの壁に当たる。あの子は、痛っ、と反射的に呟いた。

「離してよ!」
「いや、そういうわけには――」

 自分でも何を言ってるんだろうと思った。それでも無表情な僕の顔に、目の前のあの子が言う。

「あんた、みんなにヘビみたいって言われてるの、知ってる? お前みたいな暗い女は、あんたみたいのがお似合いだって、あいつら――」

 自分で言った言葉に唇を噛んで、あの子は僕を睨みつける。

「なにがあったかよく知らないけど、死のうなんて――」
「あたしの勝手でしょ!」
「そういうわけには――」
「どうしてよ!」

 聞かれて、僕は一瞬戸惑った。その顔を、チカチカとイルミネーションが照らしているのが判る。なにか言わなくちゃ――

「し、仕事だから」

 自分で自分に呆れた。そしてタイミング悪く、結構な音とともに、近くのテーマパークから花火があがった。そして、どこか作り物めいた鐘の音――そのとき、彼女が吹き出した。

「いいわ、わかった」

 ただぶら下げていたもう片方の手を、彼女が屋上の縁にかける。まるで祝福するみたいに、花火が空を照らした。




・・・・・・・・・・




個人的にはここ数年クリスマスとか関係ない感じで、しかも今回は鼻水が出るわ喉は痛いわでなんか風邪っぽい。なのでうな丼食いながら頑張って書きました――いや、なんか昔風邪引いたときに親にうな丼を食べさせられて以来、なんか風邪にはうな丼って感じなのですよ・・・あんときは確かそれを食いながらテレホンショッキングイエモンが出たのを見た気がする・・・。
タイトルはZIGGYさんね。そうそう、『CRAWL』ってCUREの『Pornography』に似てるよねー・・・って、誰もわからんかそんなの・・・。


『テレフォン・ノイローゼ』



――進み具合はいかがですかぁ?


 大阪訛りの男の声で、これが何十回、繰り返される。そのあとに、


――最低ね、あんた。死んでやるッ!


 女の声が一回。それで終わり。また週が一回廻ったのだと知る。


 雲は多いが、降ってはいないようだ。街に出よう。原稿はもう本になって店に並んでいる筈だ。留守番電話をぼんやり見下ろしながら、決める。





 それにしても、と道すがら思う。あの声の主はどんな女なのだろうか。声の感じからするとまだ若いようなのだが・・・。毎日毎日、決まったように深夜にかかってくる。番号を間違っているといい加減伝えたほうがいいのだろうかとも思うが、面倒で、そのままにしている。


 「最低よ、あんた、死んでやる・・・か・・・」


 今どきの若い女が、こんなセリフを言うものだろうか。言うとすれば、それはどんな状況なのか――と、丁度、腕を組んだ男女とすれ違った。


 「・・・男か」




 雑誌は今週も、店頭にしっかり並んでいた。『連載小説・黄金(きん)の陽炎(第142回)――國見逸朗・・・・・・p.132』――目次の中に、私もいる。




 坂を上ると、我が家が見えてくる。門の向こうに、庭と、母屋と、幾つかの離れ。晩婚だった両親は、とっくの昔に逝ってしまった。隣の三階建てマンションのベランダで、洗濯物が取り込まれ始めた。『キャッスル國見』――余らせていた土地の幾ばくかを活用したものだ。


 鍵を開け、買ってきた雑誌を居間のテーブルに放り出すと、私はまた書斎に篭る。机の引き出しの中から、端に捲り癖のついた構想メモの束を取り出す。『賄賂』『横領』・・・抜き出した一行に、アイデアを加えていく。




 夜、電話のベルで目が覚めた。


――あんた、最低ね、死んでやるッ!


 丁度"死んで"のあたりだっただろうか。受話器を取り上げることが出来た。女の声が同時に止む。


 「あのう、番号違いますよ」


 女は答えない。私は繰り返す。
 


・・・・・・・・・・




趣味丸出し。でももうちょっと頑張ってみた。タイトルは甲斐バンド。音源で聴くならやっぱし「甲斐バンド・ストーリーII」のリミックスバージョンがいなたい感じで好みかなあ。


地下室のメロディー


 その空き巣、随分臆病だな、と口に出してしまったことに自分で気付くのに、若干の誤差があった。男は反射的に黙り込んだ。考えるだけで留めておくつもりだったのに・・・と弁解するかわりのように。


 テーブルの向かいの恋人が、聞き返す替わりに彼の顔をじいっと見つめた。少し間があって、「・・・だから、家の中もいろいろと落ち着かなくって、連絡をとれなかったの」と続けた。



 窓の外で車が行き交うのに目を遣っていると、店内に流れるジャズが、男の中に入ってきた。女は、テーブル・ナプキンの箸を摘んで、口の周りを細かに拭いている。



――疲れているの?




 不意に、女が尋ねた。




――お互い、仕事で忙しいのね。



 そんなことは――と答えながら、もう会うこともないだろう、と男は考えた。漂っている旋律を追うことに、意識が向かい始める。


・・・・・・・・・・




くどくど付け足す(※昨日の日記参照)替わりに、「昇華してみせようじゃないか」という心意気のつもりで、書いてみる。タイトルは甲斐バンド。昨日の例のライブに関しては、大人だから触れません。それよりもデヴィッド・シルヴィアンの新譜が完全に「ハイセンスなインテリア」扱いで売られているっぽいことに愕然。

吐露といっしょ

 シナリオのためのイメージハンティングの都合で、実家に帰省。両親が顔を見る度におじいさんとおばあさんに近づいてく印象なのがなんとも言えなくなってくる。もちろん悪いことではないだろう。むしろ跳ね返ってくるのは自分のあり方についてだ。否応無しに大人にならざるを得ない。もちろん、なるべきだってことは知ってるしなりたいとも思ってるのだが。例えばパニック映画なんか見ると、大体ガキが一番役に立たない癖して、最後まで痛い目を見ないわけだ。「余計なインプットいらない」とか訳の判らない虚勢を張りがちなワカモノ像(なんなら、「本当の自分」像と言い換えても良い)のカリカチュアをそこに最近見いだすようになってきたりして・・・ま、別にいいんだけどさ。



 そんな帰省で、「どうして国鉄は民営化したのか」とか、いろいろ聞いてきたのだった。どの本を読むより答えが速い。有難い親だなあ。付き合いが長いと多少どうかと思うこともあるけど(笑)。



 しかしなんだな、シナリオ書いてても思うのだが、僕は圧倒的に人間に対する信用というものがないね。とはいえ人間嫌いというわけでもなく(たぶん)、要はこの目で見てきた範囲の生身の人間が、いかに「意志的」でなく、いいかげんで、例えばシナリオなどの形に昇華するに足らないということなんだろうな。別に隠すわけでもなく僕なんか世界が狭いので、恐らくこんなのは限りなく個的な社会認識なんだろうし、普段気にもしなくなっているのだが、実際その虚ろな様を見ていると、なんだかひどく悲しくなってくるのだ。この人たちは一体なにがしたくて、そしてこれからどうなっていくんだろう・・・って。余計なお世話もいいとこですね。その通り。でも一度はっきり言っておきたい。中途半端なイノセンスなんて、「若害」のようなものだ。・・・ああ、きっと僕は、「現在」や「若い」ということが嫌いなんだろう。笑えない・・・。



 とか言ってたら今頃住民税の請求が郵送されてきたり。
 税務署だか区役所だかがボケーっとしてたせいらしいのだが、来年2月末までに一回払いで5万円払えだってさ。おいおい、この五年振り返ってもそんな支出したことねえよ・・・ってか、一回払いッスか・・・。笑えねえ・・・。

よしなしごと。

知り合いと話していて、「キミは映画作りたいんでしょ? だったら映画のことだけ考えてればいいんだよ」といったニュアンスを会話から嗅ぎ取ってしまって気になることがあるのだが、気のせい・・・かな。気のせいだといいんだけども。


作品を作るためには、よく言われるように「情熱」というものが必要で、僕はその「情熱」の欠如というヤツを指摘されがちなのだが、余計なお世話な上に見当外れだ。「才気迸る」と言ったら岡本太郎タイプしか想像出来ないとか、「芸術的」と言ったらピカソの絵みたいなのしか思い浮かばないといったのと同次元の、陳腐でステレオタイプな想像力で他人を規定するんじゃないよ、ったく・・・って、あれ、話がずれた。


・・・だからつまり、その「情熱」というものというのはよくよく気をつけねばただの「思い込み」でしかなくなるのだということを指摘したいのだ。例えば「愛は地球を救う」だなんて、悪いけど世間知らずの独り言にしか聞こえない。「他人を思いやる心」と変換されるべきであろうその「愛」ばかりではなく、「自己愛」や「祖国愛」だって、きっとはるか「地球」へとつながっていくであろう「周囲」や「環境」に意識を払う契機にはなりうるだろう。「愛」にもいろいろあるのだ。現に二酸化炭素の排出権だってお金でやりとり出来るんだから・・・。


そういう所謂「矛盾」や「多様性」を折り込んだ上で、ヘタをすれば後世に残りうるカタチ、つまり「作品」というものを、考えるべきではないか? さもなくば瞬間風速的に消費され、ゴミと化す「商品」や「風俗」だけが延々生み出されることになるだろう。・・・少なくとも、僕はそういう「クリエイター」にはなりたくないな。とりあえず現状、生活切り詰めてやってんのに、それじゃモチベーション維持出来ないっすよ(笑)。




というわけで、アルバイトでモノ作ってるわけじゃないんだぜ?という話でした。



あ、雇用形態としての「アルバイト」だって社会責任が発生してることは当事者として重々承知です。「アルバイト」というものを、気楽なもんだ、とかいうようにしか捉えられない層の人々に向けて、あえて通じやすい言葉でいったまでです。どういうわけかそういう「世間を知ってる」風の人間という奴の言葉というのは鼻持ちならない。