よしなしごと。

知り合いと話していて、「キミは映画作りたいんでしょ? だったら映画のことだけ考えてればいいんだよ」といったニュアンスを会話から嗅ぎ取ってしまって気になることがあるのだが、気のせい・・・かな。気のせいだといいんだけども。


作品を作るためには、よく言われるように「情熱」というものが必要で、僕はその「情熱」の欠如というヤツを指摘されがちなのだが、余計なお世話な上に見当外れだ。「才気迸る」と言ったら岡本太郎タイプしか想像出来ないとか、「芸術的」と言ったらピカソの絵みたいなのしか思い浮かばないといったのと同次元の、陳腐でステレオタイプな想像力で他人を規定するんじゃないよ、ったく・・・って、あれ、話がずれた。


・・・だからつまり、その「情熱」というものというのはよくよく気をつけねばただの「思い込み」でしかなくなるのだということを指摘したいのだ。例えば「愛は地球を救う」だなんて、悪いけど世間知らずの独り言にしか聞こえない。「他人を思いやる心」と変換されるべきであろうその「愛」ばかりではなく、「自己愛」や「祖国愛」だって、きっとはるか「地球」へとつながっていくであろう「周囲」や「環境」に意識を払う契機にはなりうるだろう。「愛」にもいろいろあるのだ。現に二酸化炭素の排出権だってお金でやりとり出来るんだから・・・。


そういう所謂「矛盾」や「多様性」を折り込んだ上で、ヘタをすれば後世に残りうるカタチ、つまり「作品」というものを、考えるべきではないか? さもなくば瞬間風速的に消費され、ゴミと化す「商品」や「風俗」だけが延々生み出されることになるだろう。・・・少なくとも、僕はそういう「クリエイター」にはなりたくないな。とりあえず現状、生活切り詰めてやってんのに、それじゃモチベーション維持出来ないっすよ(笑)。




というわけで、アルバイトでモノ作ってるわけじゃないんだぜ?という話でした。



あ、雇用形態としての「アルバイト」だって社会責任が発生してることは当事者として重々承知です。「アルバイト」というものを、気楽なもんだ、とかいうようにしか捉えられない層の人々に向けて、あえて通じやすい言葉でいったまでです。どういうわけかそういう「世間を知ってる」風の人間という奴の言葉というのは鼻持ちならない。