「木漏れ日の花冠」/田村ゆかり


 率直に言うと、あからさまに無理目である。無茶している。


 とか書くといろいろナンですが、まあ「茶々某さんは田村ゆかりという存在そのものを愛しているんですね」ということで(違う意味に取られそうだが)、ひとつご勘弁頂きたい。




 だいたい一曲目から濃ゆい昭和歌謡である「恋のアゲハ」であるというのが無茶だ。誰がアイドル声優のアルバムの一発目にこれを期待するというのか。無茶しすぎである。しかもやたら本格的だから余計に困る。困るじゃないか・・・とか言いつつニヤニヤする自分ですがね。ふはは。のっけから明らかなのは、前作『十六夜の月、カナリアの恋』の、シュガーコーティングされたキラキラ感とは違うところを狙っているということ。続く「アンジュ・パッセ」だって、前作の延長線上にある曲なのに、まるで印象が変わってしまう。むしろその曲順による落差が、より一層の「かわいい」を強調している。


 それにしても、「バンビーノ・バンビーナ」はともかく、「tomorrow」がシングルで出てきたときも「無茶だ!」と思ったものだ。あれは第一印象は、どうやったって水◯奈々の路線だ。つまるところはるか昔(?)から連綿と続く、熱きアニソン路線である。たとえオリコン最高位の自己記録を更新しようが、あえて言うならあれは「運が良かった」のであって、大多数のファンが心から待ち望むのがああいう路線でないことは明白だろう。なぜなら「田村ゆかり」のキャラのイメージからは遠い(ように見える)から。リリース戦略に限って言うなら、むしろ従来路線の最高傑作「バンビーノ〜」があったのは前フリだったのかとすら勘ぐってしまいそうな程の外し方だ。大体最近の本業そっちのけっぷりってどうなのよ? ライブやるにしても武道館だの幕張メッセだの・・・。


 ・・・まあ、もう先は読めてると思うが、しかし、「だから」、田村ゆかりは面白いのである。つまりそれは「田村ゆかり、17歳です!」発言やライブでの「めろ〜ん!」(知らない人ゴメン)をあえて意固地なまでに続ける中に、常に「照れ」が見え隠れするように、本人もスタッフも、恐らく全てわかってやっている。無茶なことなど承知なのだ。今回のアルバムやその他諸々は、「アイドル声優」、いいでしょう、引き受けましょう、でもやるからにはとことんやるし、そこで安穏としたりはしませんよ、という意思表示だと思う(だからあんな大規模でファンクラブイベントやっちゃうのだ)。
 その意味で、前にも書いたが、田村ゆかりはまだ誰も進まざる道を、現在進行形で行っている。そしてそのために、彼女は手を抜かない。太田雅友という気心の知れた心強い現場監督と共に、かつての「デモテープ聴きまくり」から「イメージを昇華する形での発注」に制作体制の根本を変化させたことでも明らかなように、本人及びスタッフの中の確たるイメージを具現化した強さが、このアルバムの揺るがなさの理由だろう。今回はもう、インタールードで纏め上げるような(見方によっては、行き過ぎの)装飾性すら排している。実際このアルバム中での「tomorrow」はなんと見事なまでに「田村ゆかり」であることか。誤解を恐れずに言うなら、これは「Little Wish」や「Princess Rose」の正当なる発展形だ。"転んだり迷ったりするけれど あなたがいてくれるから 私は笑顔です 元気です"と笑い、"泣いてばかりの蕾だったこの想い 負けないように 枯れないように そっと咲きたい"と誓う、「女の子の強さ」なのである。"悲しみの向こう 僕らが辿り着く安らかな場所"に向かって、涙をこらえて走ってゆく、その疾走感がこの曲のイメージなのだ。




  "キスしてよ なんてもしも 言えたならその先は どうなるの?"(「Cherry Kiss」)




 田村ゆかりが「めろーん」なのはなぜか。震えながらラブレターを差し出してくる「女の子」の、あのいじらしさと強さのような、そんなものを感じてしまうから。あえてアレな感じで言うなら、たぶんそういうことなんじゃないかなあ。