sasabou2005-08-06


11.「OUTSIDE」/DAVID BOWIE('95)


 ・・・えーと、昨日の流れを受け継いで。本日もボウイおじさま。



  「確かにこれは犯罪だが、果たして芸術だろうか?」
   ーー(ライナーノーツ収録の小説「ネーサン・アドラーの日記」より)



 「ある作品を、その扱っているテーマのみで語ることは無意味であり、ゆえに危険である」・・・というのは自明のことだと思っているのですが、どんなもんでしょう? どんな題材を扱おうとも、それを上手く作品で昇華出来なければ意味がない、という。そうでなければ、時事問題を扱っただけで、その作品の存在価値が正当化されてしまうではないか・・・!という。

 で。だがしかし。今回はしかし、それをちょっと脇に置いときたくなるような、そんな感じ。なぜならこのアルバムのテーマは「アート・クライム」、すなわち「芸術犯罪」というのだから。このアルバムは、「芸術のための殺人」つまり「犯罪芸術」というテーマを扱ったコンセプト・アルバムなのです。



 ・・・って、「芸術犯罪」ってなんやねん、って? それはつまり、こういうことじゃないかな・・・。



 わりと今、「芸術」というと、つい身構えたくなるような、そんな感触の言葉になっているように思います。特に最近は「芸術的」と「エンターテインメント性」は両立しがたい、みたいな認識があるようだから、余計に。今は殆どの表現媒体がエンターテイメント至上主義じゃないですか。「芸術ムズカシイ。エンターテイメント万歳」みたいな。ねえ君だってそうだろ?(誰やねん/笑)

 ・・・そして「芸術」はどんどんおかしなことになっている。基本ポジションは「自己表現」、という。つまり「現代美術」のことですけど。「芸術」と「エンターテイメント」を両端に置いた対立概念を元手に、『「エンターテイメント=おもてなし」なら「芸術=おもてなさない」だ』とでもいいたいのか。「自己表現」とは他者とのコミュニーケーションを最初からあきらめた表現ではないか? 「俺サイコー。俺カッコイイ」もしくは「俺サイテー。俺ダサイ」というとこからの出発は、結局どう廻っても「自分」という小さな意識に囚われた、拡張性に限界のある表現。「自己満足」もしくは「自己憐憫の悦びに浸りたい」だけ。作品を通して、結局「自分」の存在の確実さを確認したいだけでしかなくて、しかもそこに、まるで排泄するかの如く、自分の中での解決を放棄した、混沌としたままの問題意識を、なす術も無くただ塗り込めて、作品を通じた他者に問題提起した気になってる人間までいる(結局これって、他人任せにしてるだけなんだけど・・・)。自分が作品を作ることでキモチよくなることしか頭にない。これを「芸術犯罪」と呼ばずしてなんというのか。

 ・・・「ここで笑って! ここで泣いて!」と強制されている(、と、とれなくもない)「エンターテイメント」表現に反感を抱きたくなる気持ちも分からなくないです。「今自分がここにいる」という証拠を残しておきたい、という気持ちも分からなくないです。でも、例えばいきなり「これは芸術だ。パフォーミング・アートだ」と言いながら街行く人々に絵の具で自分の名前を塗ったくる行為、これは一般的に「迷惑」と表現します。ましてそれがこの作品で描かれているような「殺人」というプロセスを含むとしたらなおさらで(ああ、やっと話がつながった)。



 ・・・つまるところ、これはそういう問題を扱った、殆ど永久に古びないアルバム。少なくとも現時点では古びていないし、この状況が打開されるまではきっとそうでしょう。そして重要なのは、これがかつて「グラムロック」という形で世に混沌を持ち込んだ、デヴィッド・ボウイという人間の作品であるということ。つまりこれは、そのスジの先駆者としてのステイトメントでもあるわけ。音楽は世の中を変えうるか・・・? そしていかに、変えるのか・・・? ボウイおじさんは後進に向かって問うているわけです。

 もち、ブライアン・イーノ御大のプロデュースがなし得た、「繊細なインダストリアル・ロック」という、他にあまり類を見ない(・・・苦笑)音像もステキ。いやホント、「The Heart's Filthy Lesson」での淡いんだけどツブの立ったベース音とか、その上に乗っかるやけにビビッドなピアノとか、そんな音の組み方だけでも一聴の価値ありです。