sasabou2009-06-14


「CRAWL」/ZIGGY


 "ZIGGY"に捧ぐ――。




  "許し合えたならまだ 諦めもつくんだろう
  抱き合えたのなら、あの神も見捨ててくれるさ"



 本来これは、どうしようもない作品なのだ。バンドの成長に付いて来れなくなったファンの「昔は良かった」という懐古趣味と、それゆえのバンドの苛立ち・・・だなんて、本当に、ZIGGYというバンドとそのファンにとってしか意味がない、しかもリアルすぎて笑えない内幕を抱えた作品がこの『CRAWL』であり、テクニカル/マイナー指向は元々そこに根ざしただけの、ただの自己満足的な虚飾でしかなかった。



  "浪費家を魅了するメロディーが飛んでく
   悪徳を謳歌するリズムが"

  "面倒なことは他人任せで 夜景でも眺めて悦に入るのもいいさ
   あやかりたいね"



 それにしてもこうして詞を抜き書きするだけで、なんだか恐くなって来てしまう。こんなに陰気で、チクチクと水を差すような歌詞、よく書けたものだ。しかもどこかヘンに真に迫るところがある。まだ単純に「みんな死んじまえ」とか言ってくれたほうがまだマシだ。しかも、こんなに希望もなにもなく、目の前の全てに唾を吐きかけるようなことばかり歌っているのに、演奏はとんでもなく躍動的だ。・・・このバンド、大丈夫か?



  "一層何もかもチャラにして ゼロに戻ってみないか?"
  "ネクタイを結ぶみたいに舞台に上がるくらいなら
   音もなく消えてしまいたい わかるかい?"


 ・・・ほら、もう目先は完全に「ここではない、どこか」に向かっている。もちろんそれは良い意味での「まだ見ぬ未来」などではない。退廃的で、耽美でなどあるはずもない、締念なんて生易しいもんじゃない、本当の虚無――「死」のようなもの、だ・・・なんて、少しおっかなすぎるだろうか?



  "アリとキリギリスの話なんて 例えが悪すぎるんじゃないかな
   この際 知らぬ 存ぜぬ 見ざる 聞かざる 言わざる"



 何というタイミングの良さだろう。このバンドの作詞家は、そんな自分を見る「他人」の目をも、先回りするように皮肉ってしまう。勘弁してくれ。そんなになにもかも見透かさないでくれ――



  "昨日は昨日吹いた風 運んでいったみたいだし
   結果オーライ 楽観しよう
   ひねりようのないカチカチの頭"



 もう結構だ。そんなになにもかも念入りに否定してくれることはないじゃないか。勝手に世の中を僻むだけならまだしも、とりあえず日々を平静でいようとする他人の化けの皮まではがそうとしてくれなくたっていいじゃないか。それがどんなにくだらない「浮き世」に暮らす「かざみどり」のような人々であっても、だ。どんな人間にだって、他人の幸福を決めつける権利などありはしない、そうじゃないか?



  "裸の声に傷つくのさ 建前ばかりの幸福は"



 ・・・ついに歌ってしまった。森重樹一め、本当に確信犯的に「言ってはいけない言葉」ばかり書き連ねているんだ。なんて奴だ。



  "明け透けな悪意のほうがむしろ心地良く
   利己主義のまわりくどい弁解はただ哀れだ"



 そう、皮肉屋たちはいつもそうやって自分を正当化する。「俺はあえてお前に、誰もが言ってくれない本音を伝えてやっているんだ」って、ね。



 だけど・・・。



  "銀色の雨に濡れ陰りゆく街
   やりきれなさに胸は詰まる
   僕はひとり何かやり残したようさ
   Silent Eveを待ちながら"



 そんな皮肉屋が、控えめに綴るこんな情景の切なさに、僕は惹かれてしまう。気付けば、「眠りに落ちた束の間でさえ僕らの自意識は勝手に踊ってる」「繰り返すことに苛立ってたから」「疲れきった足をただ休ませてくれ 凪いだ夜の静けさに」なんて、言い訳のような詞が並んでいる。さっきまで散々悪態ついてみせた声が泣きそうに歌う。猥雑な雑踏の余韻をどこかで引き摺りながらも、澄んだ世界を描き出そうとするバンドの、優しげな音色・・・。「こんな皮肉屋だって本当はきっと、苛立つことなく、愛するものだけ見つめて生きていきたいのさ」なんて、肩を持ちすぎているだろうか。いいだろう、ついでに「いろんなものが見え過ぎてしまうからこそ、つい言ってしまいたくなる痛い本音もあるのさ」とも言ってしまおう。


 そしてZIGGYは、もがき苦しみながらでも生きていくことをやめなかった。



  "空気が冷えていくのを見る度 笑ってみる 可愛げなく
   取り繕って 深みにはまる 腰まで"
  "笑う門には福も来るだろう 泣きたくなる 年甲斐なく
   立ち回って 恥を上塗りしてゆく"



 一体いつから、まるで最初から完成型があるかのように「人生」は語られるようになったのだろう。キラキラと輝くばかりが在りうべき生活の姿だなんて、一体誰が決めたんだ。いつだって本当は、一寸先は闇、明日なんて誰も知らない、本当はいつも不安ばかり・・・案外そんなのが「みんな」の本性なんじゃないか。そんなとき本当に強いのは、それでも生きることをやめられない「弱さ」だ。と、そうどこかでこの皮肉屋は悟っているんじゃないか、本当は。「センチメンタリズムに君は殺される」("センチメンタリズムを憐れむ歌")とも彼は歌っているが、「物騒なだけの連帯」を助長するのもセンチメンタリズムなら、「埋葬されてゆく同時代性を追い 飛び込む勇気」もまた、ある種のセンチメンタリズムなんじゃないだろうか? そこんとこどうなんだ、森重?