ざっっっっっっっっき(やると思った)

3回目ともなると自他ともにウンザリな感じかもしれないが、まあ毒喰わば皿までの精神で(どんな精神だよ・・・)



■「いつも私のことだけ考えててよ!」と言って許される人種には2種類あります。はい、そうですね、「可愛い女の子」と「お客様」です。
・・・などと書くと「また上から目線で人を見て!」などと煙たがられることウケアイだが、フリーター生活も1年以上、日々店頭で接客などしているとそんな気持ちにもなる。まあ実際、「お客様第一」を掲げる企業はあっても「お客様など二の次!」などと公言して憚らない企業というのはついぞ見たことがない(あるわきゃない)。
しかしながら、特に比較的安価なサービス業etcにおいて、「お客様」自身の言うところの「お客様」と、企業が言うところの「お客様」には実はズレがある。前者は個人だが、後者は個人ではない。なぜなら、安価なサービスetcを可能にするのはマスプロダクションだからである。個別に請け負う場合のコストを、大量の受注を以て人件費、材料費、流通費などの面で大幅にカット出来るからこそ安価なサービスetcというのは可能なのであって、当然「お客様」個人の事情というのはどんどん二の次になっていく。サービスが匿名的になっていくのだ。このズレって時々サギですらあるよなーと思うことはあるが、これは、別に「お客様」だってなにも考えないわけではあるまいと(企業が)踏んだ上のハナシなのだ。つまり、吉野家松屋すき家などなど、食べ較べて最終的に(それでも食費を浮かせたいなら)好みも鑑みつつどこの牛丼を喰うかを決めるのはそれこそ「お客様」個人であって、なにも企業はそこまでの拘束力など持たない(当たり前)。と、考えてふと思ったのが、安価なサービスに払う対価というのは「契約料」なんだなあということだ。「この値段だからこの程度のサービスですけど、構いませんね?」という条件付けに対して、「構いません。それが私の欲するサービスで、それ以上は望みません」と契約するわけだ。当然こんなことその場で確認する企業などないだろうが。それが「契約料」でなくなってくるのはすなわち追加料金を払った場合であり、トッピングを入れたり、追加の加工をしたり、すなわちマスプロダクションによる匿名的なサービスを「お客様」個人の事情に応じて記名的なサービスにしていくということだ。
さてそこで何が言いたいかというと、CDだって当然マスプロダクションの産物なのだから、なにがなんでもいつも正価で買わねばならないということもあるまいという(笑)ハナシなんだが、まあそれとこれとは別の話の気もする。というか別の話であって欲しいと思うのだが。


■映画の見方に関して――(話は唐突に変わりますが)――高校生の頃は「何が何でも映画館で見るべし!」と思っていた。さすがに大学生の頃からは「まあレンタルでも、いいよね」と思うようになったのだが、それでも「見るからにはなるべく心を無にして、思い込みナシで、映画に失礼のないようにしなければならない」と思っていた。ようやく「そうでもねーな」と、わりと最近思えるようになったのだが、まあ、映画などボーッと見ればいいじゃないか、思い込みアリアリで見てもいいじゃないか。ねえ。
まあ観る側の気分として1800円くらいフツーは支払って観るわけだから、そんなに払ったんだから全身全霊で楽しまなければ!という意気込みのもとにまるで修行僧のように心頭滅却して観るというのは気持ちとしてわからなくもないし、それはそれでそうしたければそのように観ればいいじゃないかとは思う。だとすると毎月1日は不真面目に見てもいいんだよね!とかそういうチャチャを入れはじめるとキリがないからやめるが、上に書いたのはそういう受け手側の話ではなくて、送り手側の考え方の話だと思って下さい(ついでですが僕はこんなんでもまだ送り手側にいるつもりなのです・・・もうウンザリでしょうがガマンしてください)。実際問題、「オレの映画は素直な気持ちで観ろ!」とかいう映画監督が居たら、すげえウザイと思うけど(笑)そういう人は結構いるんじゃないかという気がするね。というか居るね(笑)。まあでも、そもそも映画は本来映画館で観ることを前提に作られている。言い換えれば、あたり一面暗闇の中で、日常から隔離された気分で観てもらうことを前提に作られている。その上で世界観に没入し楽しんでもらえるようなトリックを仕込むのが映画作りの基本であって、茶の間で煎餅齧りながら世間話しつつ・・・というのはその効果を半減させる行為なわけです、本来は。だからまあ「ウザイと思うけど(中略)居るね(笑)」とか言いつつも、そういうわけなのである程度は勘弁して(あげて)下さいよ、というのがホンネかな・・・。
と、いいつつも、塾をサボって観に来た学生さんはやっぱり必要以上にのめりこんで観るだろうし、試写会に於ける、身銭切ってないから偉そうに上から目線で頭デッカチに観る批評家というのは多かれ少なかれいるのだろうし、ただ単に眠い人もいるだろうし、わけもなくイライラしてる人もいるだろうし、映画が終わったあと、連れの女の子をどこに連れて行くかで頭がいっぱいの男の子もいるだろう。その各々に「いいからともかくちゃんと観よ!」などと言うのは多大な労力を要する(メンドクサイし/笑)のでやはりそのままに観て頂くしかない。ましてや「ニーズの多様化」と形容される、"個々人が固定観念をそう易々と手放せない時代"においては事情はより複雑だろう。だからといって全部ほっぽり出して「いいじゃん俺は俺で作りたいもの作るし。文句ある?」などと作り手がニッチ化するのも考えもので、トミノ監督じゃないが「そういう人はネットで発表すれば充分」だと思う。なんにせよ1000円〜1800円とか払って不特定多数の人に観てもらうんだから、最低限その値段分ぐらいは満足してもらうようにするのは作り手として当然の義務であり、そういう心構えはあって然るべき。まあ最近はニッチ産業が盛んになってきてるのでその1000円〜1800円が契約金のようになっている場合もあるだろう・・・考えると寒々しくて泣きそうだが、「この映画はこれこれこういう内容です。そのような内容しかありませんが如何でしょうか」という契約を、「構いません、それが観たいのですから。それ以上は望みません」と承諾して契約金を払うわけである。うーん(笑)。
寒々しくてしょうがないので、それではといっちゃなんだがこういうのはどうか。今こそエンターテイメントの時代なのだ、と。


■そもそもエンターテイメントとはなにか。それ即ち「レイディースアンドジェントルマン、アーンドおとっつぁんおっかさん、おコンバンワ」の世界である。来るもの拒まず、相手の気分をノセたりスカしたりして、満足してもらう。それは「おもてなし」のようなものだろう。なんだか軽視されている気もするが、本当はこれって凡そ全ての表現に於いて基本の態度なのではあるまいか。別に「その場で楽しんで終わり」のモノでなくたって事情は変わらないのだ。例えば小難しい哲学をカマす場合だって、もちろん「これこれこうだから、つまりこれはこうでね・・・」と順を追って説明しなければ伝わらないんだけど、それ以前にそのような話をちゃんと飽きずに順序立てて最初から最後まで聴いてもらえる雰囲気を作らなければならないし、そのためにはあえて、ツカミも兼ねてその小難しい結論部分だけをいきなり相手にぶつけるのもテかもしれないわけだ。どうだろう、「おもてなし」もまんざらツマラナイものでもない気がするのだが。その辺追求してみるのもムダではあるまい。恐らくニッチ化するよりはだいぶ広く伝わるし、それって意義あるような達成感あるような、そんな気がするのだが。
まあツマるかツマラナイかどうかはともかく、ひとたび受け手の側に立ってみれば、やっぱり踏まえてもらえるほうが望ましいと思う。「考えさせる映画」が最初から最後まで説明不足で「考え続けないといけない映画」だったら、困るもん・・・。考えさせるなら考えさせるで、こっちが(=観客が)どこを考えればいいのか、示してくれないと困るのだよ。
まあ、その意味でのちゃんとした「おもてなし」をするというのは非常にスキルと知識と勘がいるのだが・・・でも、そういうこと考えなくていいんなら創作なんてなんでもありじゃねえかと思うのだが、どうか。


■ニッチ化について。そういう意味で最近ディスクユニオンに行くとなんだかゲンナリするのだ。なんたって岡村ちゃんだってYMOだって「J-POP」だし、ゲンスブールなんて「フレンチポップス」だし、クラフトワークなんて「プログレ」だし・・・(笑)そりゃ、別にまあ違っちゃいないよ? たぶん・・・。そりゃ日本国内で流通してる主に国内で制作された日本向けの音楽は「J-POP」だしさ、フランスのポップスは「フレンチポップス」だしさ、クラフトワークは・・・フツー「テクノ」じゃね?(有名になり始めた頃にプログレに括られていたという歴史的事実はあるにせよ/笑)・・・まあ書きながらバカらしくなってきたんだが、なんだか「差異の商品化」というヤツを目の当たりにするようでうすら寒くなるね。まあそんなら行かなきゃいいじゃんと言われそうだが、ヤツら結構めぼしいの安売りするからよ・・・(笑)。ま、でも、もし僕がミュージシャンだったとして、なにを発表してもそのように括られてしまうんだとしたらはっきり言って無力感に苛まれてどうしようもないんじゃないかと気がする。大体あの店の客層はもはやそんな括りを飛び越えててもおかしくない人も含むだろうと思うわけで、いやあなんともお寒いお話だね(笑)。つーか1stから3rdの頃のエコバニのいったいどのへんが「ネオアコ」なのか教えて下さいよディスクユニオンさん(笑)。むしろエコバニが「ネオアコ」だったことなんかねーよと思うのだがどうなのよ。むしろ「ネオ」な「アコ」って何だYO!!


■その意味で、展開するにつれキャラクターの精神分析へと踏み込んでいく「エヴァンゲリオン」という作品はとても観ていて辛いものがあった(実はちゃんとリアルタイムで観ていたわけではなかったのでここ最近全話見直したりしていた)。
とりあえずアンノ君には残念なお知らせだが、人間は精神分析のために生きているのではないのだよ。逆はあっても。トラウマがなんぼのもんだっちゅーだよ。そして、アニメキャラクターは人形ではない。本来アニメってキャラクターその他が「生きてる」と思いたいというところが出発点なのであって、だから動かすんであって、その意識は観る人も多かれ少なかれ共有してるハズなんだよね。「よく考えろ、これは絵だ」というのは真実すぎて禁句なわけだ(笑)。だから、キャラクターに死臭を漂わせるためのストーリー展開についてこないのなんか当たり前だし、ついてくる人ってのはその辺の意識に関して中二病を煩ってる淋しい人ばっかりだし、結局そういう人に対して説教してるだけという構図が残ってしまうわけだけど、ねえ、それって楽しい? しかもそんなの殆どアンノの自己嫌悪じゃねえか。ふざけんじゃねえ。
それにしてもこれがアニメであるというのはなかなか悪意ある冴えというものだ。仕組まざるプロフィールの存在しないアニメキャラ(実在感による言外の説得力を持たないということ)でなければ、こうも自分勝手に人間(を模したもの)を切り刻むことなど許されはしない。いや、本当は許されてなどないと思うが、それにしたって、ここまで拒絶感や違和感なく切り刻める対象は、他にありはしない。なんたって「これは絵だ」なわけだから。当たり前すぎてヘドが出る。
あとまあ個人的には「ゼーレ」という組織の不可解さがどうしても残る。あんな組織があそこまで大成するわけねえだろ(笑)。陰謀論でも構わんが、ウソはもうちょっと上手くついてほしいな。言いはじめると全体的にその辺キリはないし、要するに頭デッカチなんだよね・・・。
・・・え? 感情移入の対象として定番化したアニメキャラをあえて切り刻むのが背徳感があって快感、ですって? それって余計にヒドいハナシだと思うんだが・・・。


■終わったら割とまとまっていた。ま、良しと思うことにしよう。