(知ってたけど)雑談というのは楽しい。論文とかエッセイでもそうだけど、そういったある程度しっかりした文に付き物である、結論やオチに向かって文章を絞り込んでいく作業、をマルっと抜かしてしまうわけだから、そりゃあ楽しいよなあ。ある程度いい加減でもいいもんなあとそんなこと言いつつ結論から言うと今日も雑記なのですよ。



■さて、前回の文に関して、格好の文章を見つけたので以下に抜粋。


 カテゴライズのことなんか、私にはどうでもいい。
 カテゴライズなんか、ファックだ!
 カテゴライズが私のために、いったい何をしてくれた?
              <セルジュ・ゲンスブール 1987年>
 
先にゲロっとくと、本物のゲンスブールの言葉だと「カテゴライズ」ではなく「死んだあと」です。てへ。まあでも、似たようなものだ。特に自分自身の"気分"に関して、自分の管轄外のことに規定される必要なんかまるでないわけ。
とかいいつつもチクチクと心が痛むのは、それこそ僕も中高生の頃は「ハード・ロックVSオルタナティブ」の構造を絶対的なものとして持っていたわけで、まあその場合「ハードロック」は硬派で正しくて崇高、「オルタナ」は軟派でやましくて俗悪という位置付けで、もっぱら前者を賛美するわけなんですけど、要するに、何かを好きになっていく特にその初期段階に於いて「ジャンル」でもなんでもいいが、カタチから入る行為を依って立つところにする必要性というのは認めても然るべきものなのじゃないかという気がするのです。そりゃあ最初っから全部マニュアルじゃ辛いわよねって。
ただ、それこそ僕は今や音楽なら音楽の「初期段階」や「初心者」という言葉を自分に冠せるか、それでいいのオレ?というハナシで。
それとまあ、音楽でも何でも、自分及び自分と似た種類の人間、それのみにしか伝わっていかない表現ってのはやはり機能不全ではないかという気がします。それなら広く流通する必要なんかない。むしろ作品という形に託して表現する必要があるかも怪しい。僕は今こんなんですが、こんなでも一応いつかは創作者として現場復帰する予定(ホントかよ/笑)ですので、その辺は個人的事情ではあるけど気になります。つまり、ハードロックでもオルタナでもジャズでも演歌だって、なんだっていいんだ、要はメッセージでも共感でもなんでも、発信者がいかにその効率と有効性を鑑みた上で、唯一的な、その作品だからこそのカタチにそれらを昇華出来ているか、そこが肝だろと。ミュージシャンや作家は、自分の伝えたいことが自分の能力でカタチに出来ない、自分の詞や演奏や得意な方法論で具現化出来ないと思い知った瞬間やはり葛藤すべき、精進すべきであって、そこを誤摩化していくからなんでもかんでも似たような形の作品にしかならないとかそういう言ってみれば「表現の矮小化」が起きるんじゃないかという気がする。わかりやすく言うなら、Queenの「Greatest Hits」の中身のバラエティーの多様さは別に特殊事例なんかではないということなんだ。言いたいことや楽しませたい中身が変われば伝え方や楽しませ方も変わる。そんなの当然で、逆に言えばひとつのジャンルや作者にとっての”必勝パターン”に拘るのであればおのずとそこからハミ出すもの、抜け落ちるもの、フォロー出来ないものがあることぐらいは自覚してやってかなくちゃならない。そして(話を戻すと)既に音楽というものを自覚的に楽しむ身としては既に15年選手であるところの自分としては、その欠落をあれこれ埋め合わせてみたりする能動性や自由ぐらい行使しててもいいじゃないと思うわけです。以上。


■と長々しく述べてみましたが、まあ好きなようにお聴きなさい笑いなさい可愛いよという感じで別にいいよなあ。素直になりたい25歳の冬。


■素直ついでにもう一個。要するに僕はケチだし、ネットで中古1円で買えるものをわざわざ新品で買いに行くかってところでかなり迷ったりもするのが人情というものじゃないかそもそもという気がする。結局聴きながら音楽を自分のものに出来るかというところが一番大事な気もするし、ポール・ギルバートは二束三文で買った泥だらけのビートルズのLPを綺麗に洗って愛聴したと言うし、なんだか音質や仕様にばかり拘りがちな最近の流行りはどこか本質から逸れてるような気がする。まあ本質云々を抜きにした「商品としての魅力」という面では時に僕も大喜びで乗っかりますから、まあ好きなようにおやりなさいという気もするけどね(そして話も逸れているのだった)。


■というか、みんな気長になればいいと思うのね。25年かかってゴールドディスクとか、そういうのがあったってホントは全然構わない。一度もオリコンにチャートインしなかろうとも。ていうか本当はLP一枚聴いてもらうってことだけで大変なことなんだからさ。これだけ「個性が多様化」してる(らしい)のに、なんでそこまでのハナシをしようという雰囲気にはならないのかしら。みんなそこまで「花屋の店先に並んだ」「色とりどりの花束」の中にいたいの?


■話ついでに(ついでばっかだ)「世界にひとつだけの花」という曲を思い出してみる。正味の話やっぱヤバいわ、あの歌(笑)。タチの悪いジョークにしか思えない。だってフツーに、「いや、俺は俺であるということだけで素晴らしいわけですから」ってどんな立場が悪かったとしても最後の最後には伝家の宝刀の如く開き直る、そんなヤツが隣に居たら殴りたくなるじゃん?(笑) そのくせそういう内容の歌があれだけ売れるってどういうことなのか、あれだけ受け入れられてるってどういうことなのか、って言えば、それだけああいう世界が多くの人の理想だってことだ。つまり、醒めた眼で見れば日々矛盾と妥協と欺瞞に満ちた資本社会の歯車たる自分だけど、本当はそうじゃない、犯されざるイノセンスが自分の本当の姿なんだ、とみんな思いたがってるってことでしょ? それを世に「自分探し」とか言ったりするらしいけど、まあ自分も多かれ少なかれそういう人間だからあまり大それたことは言えない。でも不思議なことにその誰もが「俺は花屋の店先になんか並ばないぜ」とか「俺はどこにだって咲いてやるぜ」とは言わない。それって「イノセントな自分」から逆算出来る範囲内のパーソナリティーの人間に話を限る感覚――例えば「俺は人を殺してる瞬間だけ自分が生きてるって実感するんだフヘヘ」とかそういう人間のことは視界から抜け落ちてる感覚なわけで、要するに「花屋の店先に並んだ」花たる、生まれたときからたぶん死ぬまで身の処し方にそこまで悩まされずに日々生きていける底上げされたヒトビトのことしか相手にしてないし共感求めてないってわけでしょ? イレギュラーの可能性は丁寧に排除されるって寸法だ。そういう意味では実に(素直で)寒々しく狭量な歌なわけだけど、そうするとまあほぼ永遠に宮崎勤や去年のアキバのアイツのどこがどうヤバかったかを検証する視点を失うわけで、ってことはどれだけ彼らが我々の隣に居た人物かに気付くきっかけを失うってことだ。


■ちょっとものの本を読んでみれば判ることだが、宮崎勤が事件を起こした根底には「イノセントな自分」への回帰願望がある。彼は「甘い世界」と語ったが、フラットに見たときに車で幼女を連れ回すってどういう行為かって言えば、「社会に出て汚れていく自分」が、ムードを壊さない外界から隔離された空間で、相応しい相手と共に「イノセントな自分」に回帰する、そのためのお膳立てなわけでしょう。そして女の子が飽きて「帰りたい」とゴネれば、「相応しい相手」が即座に「自分を汚す外界」からの闖入者と化すわけで、「可愛さ余って憎さ百倍」ではないが・・・ね? あくまで推論だが(だってその辺を検証する前に死刑にしちゃったんだから)、おおいにあり得る話じゃないかこれ? 彼には彼で、病気という形で名付けられないが故にいつまでも御し難い手の障害があったり、その他いろんな生い立ちの事情もあるだろう。だから結局は彼自身の問題というところに結論づけられるのかもしれない。でも、少し理解出来る気がする、それだけで大きな収穫かも、と自分では思います。


■上段の最後で急にトーンダウンしたのは、結局自分の推論に過ぎないことを急に思い出したからなんだけど、実は去年の秋葉原のあの事件に関しても殆ど同じルートを辿って読み解くことが出来るんだよね。「自分探し」という。要は萌えやその他の秋葉原カルチャーが彼のお眼鏡に適わなかったということじゃないかな。そして付け足すならば、供述通り、彼はあの日あの場所に来るまで、よもや自分でもそんな大それた事件を本当に起こすとは思ってなかったんじゃないか。準備段階で誰かが止めてくれると思ってたんじゃないか。そんな気がする。親の援助(などというもの)を自分で蹴って自活したがり、なおかつムラはあってもそれを実現出来たほどの「真人間」が、本気であんな事件を計画するとは考えにくい。表面上ウソっぽく見えるアキバカルチャーとはいえ、ホントはどっかにイノセントな自分に見合うだけの世界観を持っていて、最終的にはそれが自分を止めてくれる筈だと思っていた・・・ちょっと脚色が過ぎるかな。


■<少しだけサブテキスト>
ゲーム(マンガでもアニメでもいいが)と現実の区別がつかないのであれば、明らかにリスクも少なく思い通りに事が運ぶ空想の世界で好きなように人殺しでもなんでもやれば気の済む話であって、そういう言い方をこのテの事件に当てはめるのは正しくない。むしろ空想では気が済まなくなって現実に翻るというほうが道理は通る。それはつまり、自分の思い通りにいくとは限らない環境下で、なおかつ自分の欲望が実現されることへの欲求である。それはあまりにもストレートな「現実回帰」だ。そしてその場合、ゲームやマンガやアニメはその人にとって、役立たずのウソッぱちでしかない。


■最後に言い訳のように書いとこう。ありのままの現実を楽しめばいいと思うんだ、僕は。憎たらしいヤツでもどこか共感出来るところがある、逆もまた然り。これほどスリリングで刺激的な、豊かなことはない。自分だって、まだ知らないイノセンスを抱えてるかもしれないし、醜い面もあるだろう。そして世界は続いていく。常にフレキシブルで変わりゆく世界。わりきれないからこそ謎に満ちて奥深い世界。今がダメでも、ゆるやかに状況は変わっていくさ。それよりも一瞬一瞬がその場限りで、見過ごすなんてあまりに勿体ない。無駄に思える自分の生活も、どこかで誰かの希望に繋がっているかもしれない。だから――世界を殺してはいけない。世界は「私」や「あなた」だけのものではない。