他人の考えることはわからん。っていうか知らん。


・・・とか言ったら、コミュニケーション拒絶な社会不適格者っぽい? かなあ?
でも、実際自分が周りからどう見られているかってのを、人づてやもしくは直接聞いたりすると、つくづく他人のことなんて誰も理解出来ないんだなあ、と思わされる。自分と同い年、でも仕事上では先輩の人、の意見を頑として聞かなかったり、傍目にも辛そうに仕事する、「自分の知らない自分」が勝手に作られていて、まあそれはそれで結構面白いけどさ(笑)。

この辺、私は作品に対しても同じように思っていて、つまり、作品で作者の伝えたいことや主張なんていつも100%伝わるものではない、と思っている。ただ、受け手が勝手に「これはこう思って作ったんだろう」「この表現で作者はこう伝えたいのだ」と解釈しているだけだ、と。そもそも作者が作品に、本気の主張を100%の力をもって、そういつもいつも封じ込めているかどうか、というところから疑わしいと思っている。これ、自分でも作る人にはよく伝わると思うけれども・・・つまり、偶然や思いつきが、作品を自分の思っていた以上の物に昇華させる可能性って、おおいにあるから。


・・・寂しい話、ですかねえ?

私はそう思わない。偶然や思いつき、みたいな誤差を生む不確定要素は、そのまま「解釈」にも言えることであって、それは受け手が作品を豊かにする一過程だと思うから。作品に触れた人それぞれに印象が違うってこと、つまりそれはそれぞれの中に自分だけの「作品」を作るということ・・・ではないかなあ。


・・・ただ、解釈を作者や作品に押し付けるのはどうかと思うんだよね。自分の解釈が作者の意思とシンクロしたと勝手に思いこんで、忠実な信者、みたいな気になってしまったり・・・まあ、勝手だけどさ。「メタル・ゴッド」でもまあなんでもいいけどさ、結局自分の求める「型」に作品を押し込んで・・・虎(作品)の威を借るようなものではないですか。





・・・長くなってきた。結論。



だから、私は「妄想」と書く。あくまで自分が勝手にそう思っているだけ。一線は越えない。妄想でいろいろな見方を試してみるっていう自分のやり方が、それなりに豊かなんじゃないかな、という小さな確信を持っているから。ゆかりんやジュリーや森重やその多諸々、受け手である限り、本当の姿なんて結局知り得ない。きっとしりたくもないことだってあるだろう。でもそれは仕方のないことだから。本当に。