年忘れ。

いつのまにか年末、でありますな。今年もいろいろあった・・・と感慨に耽ってみてもこのブログとかもちろん本サイトのほうも加速度的に殆ど更新しなくなっていったのであまり共感を得られまいと思うわけですが。

なので、忘年会的に無礼講で、くどくど思いつくまま書いていってみたりしようかな・・・という。出席者は自分一人だけどな。




生まれてこのかた、今年ほど映画を観た年はなかったんじゃないだろうか。そんな2008年。ヒドイときには日に3本観たりしてたけど、好きな人にしてみたらそんなんフツーだっていう(笑)。ま、いいけどさ。
そんでもって・・・(食わず嫌いだった)宮崎駿とか、(門外漢だった)スポーツ系の映画とか、そういうの観たりしてたのです。うん、ていうか、もうジャンルとかいいじゃんって。そう思うですよ、最近。
結局批評の言葉なんて要らないじゃないんじゃないかなあ。作品が勝負だ、とはよく言われますけど、映画ならストーリー、俳優、セリフ、カメラアングル、小道具、画質、劇伴その多諸々の相互・相乗・昇華作用・・・によって語りかけてくるなにがしかのイメージ、観客であるわれわれを揺り動かすエネルギー、そういうものだけじゃないかな、重要なのは。違う言い方をすればそれは"パブリックである"ということかもしれんけど、表現としての抽象化の先鋭さだけを問題にしたい。

これは音楽でも同じだよなあと思う。もうロックとかR&Bとかなんだとかかんだとかどうでもいいや、僕は。知らんしって思う。そういうのはディスクユニオンとかが頑張りたきゃ頑張ればいいんじゃない? J-POPとかJ-ROCKとかプログレとかトランスとか、なんでもいいけど、勝手に呼びたまえ。僕はそんなの知らん。だいいち、そのご立派ななんだか、は、そこいらのカタブツの定年前公務員とか放蕩な未成年大学生とか日々退屈な専業主婦とか、そういう人にとってどれだけの意味を持つというのか。ニッチだかなんだか知らんが、マニアに向かって狙い打つなんて「それだけ」でしかないよ。「ニーズの多様化」なんて振れ幅の狭い人間が振れ幅の狭い人間と振れ幅の狭い言葉で会話してる、その集合体に過ぎないじゃん。なーにが「NO MUSIC ,NO LIFE」だ。

・・・はっ、いかんいかんまたしても飛躍気味にアジってしまった(←そらぞらしい)。


まあ理屈はともかく、結局僕は今年も「じゅ〜りぃ〜!」だったわけですけど、あの人の今の佇まいは、確かな真実なんだと思う。酸いも甘いも、みんな沢田研二が歌ってきたし、そして今でも歌っている。「確信」も「君だけに愛を」も「追憶」も「単純な永遠」も「届かない花々」も「俺たち最高」も「世紀の片恋」も「時の過ぎゆくままに」も「愛まで待てない」も、みんなあるのだ。こんな壮大なドラマはない。まるで映画みたいにきらきらして素敵だ。そして、この奥深さは、きっと趣味や思想を超えて万人に何がしかの感銘を与えてくれるんじゃないかと思う。「今の歌手なんか比べ物にならない」とか「昭和はよかった」じゃないんだよね、きっと。これだけ歌いつづけてきた人間だから、そしてなによりもジュリーはジュリーだから良い、のだ。


と、たかだか人生四半世紀にしか過ぎない人間が、そういう人間なりに語ってみる。結局ジュリーの話になってるけど、それでもいい(いいのか)。や、でもホンマ、ジュリーを知ってたからこそ僕はこれでも大分マトモな人間でいられてる気がすると思う。ホントに深いよ、あの人は。




久々に日記書いたらまとまんねえ・・・(そのままカット・アウト)