実相寺監督について言いたいことは、山ほどある。


実相寺監督は、今もって僕の一番好きな映画監督だ。父がファンだったので、小さい頃からいろいろと見せられてきたし、「京都買います」「呪いの壷」を初めて見たときは、ちょうど中学生という思春期まっただ中だったので、影響は大きく、これによって確実に感性の方向性を決められてしまったと言っていいと思う。

奇抜なカメラアングル、陰影の深い独特な照明など、表面的な部分で述べられることも多いし、またそこを模倣されることも多いのだが、実相寺さんは結局、見えないところ、物語の奥底で蠢くなにか、を撮る天才だったのだと思う。評判の悪かった「姑獲鳥の夏」だって、僕はその一点が曇っていなかったから喜べたし、あれはあの形で正解だったのだと思う。なぜなら、京極作品も「なにか」を巧みに描き出している作品なわけだから。


実相寺監督が亡くなった日は、実は僕の誕生日だった。亡くなった時刻なんて、ちょうど友人数名を自宅に招いて、誕生日を祝ってもらっていた時だ。友人の一人は、僕にiPodをくれた。ポータブルのミュージックプレーヤーを持っていなかったので親からのお下がりのカセットテーププレーヤーを仕事場に持ち込んでいたのだが、いい加減再生に不具合が出てきて困る、とよくこぼしていたからだろう。貰ったiPodは、聞き飽きた筈の曲をクリアに僕に聴かせ、新たな発見をもたらしてくれている。まるで新しい曲を聴いているみたいだ。全然関係なんかないけど、なんだか変な気分だ。



僕は今、振り落とされそうになりながらも、まだ「表現」をする場の末端にいる。ここは、どんどん「見た目」だけに終始していこうとしている世界だ。「跡を継ぐ」だなんてことはとても言えた身ではないが、忘れ去られていくものを、しっかりと持って進んでいかなければならないとは強く思っている。